2010年8月1日日曜日

消費税増税のシミュレーション 2 予測編

さて、前回のブログ、消費税増税シミュレーションのメタ理論編に引き続いて、消費税増税について検討してみましょう。

まず、消費税増税をすると、年金不安が解消されて消費が増え、デフレが解消されると自民党の谷垣総裁が発言し、菅首相も同様の発言をその後したと記憶していますが、それは明らかな誤謬です。というのは、すでに見たように、個人消費の低迷は、そもそも民間給与総額の低下にあるからです。収入が減っているのに、「年金は将来も安心だからお金をぱーっと使おう」と思う人はいませんよね(笑)。というか、思っても、先立つものがなければどうしようもありません。それに、少なくとも年金不安より大きな問題は、収入不安・雇用不安です。もし将来的に収入が減る、あるいは解雇されるという恐れがあるならば、消費は抑制されます。つまり、個人消費を決定する要因は、おそらく

現在の収入>近い将来の収入・雇用不安≫年金不安

です。

もう一つ検討しないといけないことがあります。消費税増税は、政府でどのように使われるのか、です。つまり、財政再建のためなのか、それとも小野理論が提唱するように、福祉目的の雇用に使われるのか、という問題です。後者だとすると、消費税増税前に法人税を減税すべきだとなぜ主張されているのか、整合性がとれません。まあ、財政再建のためだとしても、法人税減税と整合性はとれないのですが(笑)。ともあれ、今回の消費税増税騒ぎのバックにいると思われる財務省や財界の動き、そして現在の民主党政権の動向から考えるならば、消費税を増税してその分福祉が充実する、という期待は、あらかじめ念頭から排除しておいた方が、国民としては賢明でしょう。

ちなみに、私の前稿を読んで理解してくれた人は、法人税減税で景気が回復する見込みがまったくないことも、容易に理解してくれると思います。というのは、減税された分、従業員の給与に還元される可能性は、現在の日本では限りなく低く、それゆえ個人消費も低迷するからです。これでは設備投資需要は生まれませんし、余ったお金は世界のどこかでバブルを発生させるだけです。そしてバブルは必ずはじけ、また企業の債務超過を生み出します。そもそも、企業の内部留保の拡大(≒賃金抑制)こそがデフレの最大の原因だったわけですから、法人税減税は、財政赤字を増やさない限り、デフレを生み出すのです。

 

さて、消費税を増税すると、何が起こるのか推測してみましょう。過去の増税の時から考えると、増税前のかけこみ需要と、その後の消費の大幅な冷え込みがあるはずですが、一時的な現象であるのと、またその後の効果を計算しづらいこともあり、今回は捨象します。とりあえず、確実に言えることは、貯蓄率が一定であると仮定するなら、消費税を5%増税すると可処分所得が事実上目減りするということです。

たとえば、今、私が10500円持っていたとします。それで、10000円のモノが買えていたわけです。ところが、消費税が10%になると、

10500÷1.10=9545円

しか使えなくなるわけです。

つまり、可処分所得が

(10500÷1.10)÷(10500÷1.05)=95.45%

に減るというのと事実上同じなのです。

さて、そうすると、貯蓄率がもし一定という条件ならですが、個人消費が4.55%減ります。ということは、消費税を5%引き上げると言うことは、個人・家庭向けに商品やサービスを売っている企業の売り上げ(利益でも粗利でもなく、売り上げです!)が、自動的に4.55%減るということです。もちろん、この売り上げ減は、自動的に物流業や卸売業、製造業などに波及し、また設備投資需要も大幅に落ち込ませるので、完全に海外向けの製造業以外、日本経済のほぼ全領域にその効果は行き渡ります。

(このあいだも言いましたが、もう一度言わせてください。利益に対する税である法人税の減税の代わりに、売り上げを自動的に落ち込ませる消費税増税を要求する財界は、朝三暮四の猿より頭が悪いです)。

前稿で見たように、個人消費総額と名目GDPは完全に連動しています。それゆえ、個人消費総額が4.55%減れば、名目GDPもまた、だいたい4.55%程度下落するのです。

さて、売り上げあるいは名目GDPが4.55%減ると、大部分の企業の収益は大幅に悪化します。そして、これが消費税減税の、いわば恒常的な効果であることを(やっとその時点になって)理解し、疑いなくリストラや賃金カット、サービス残業の拡大、非正規雇用への切り替え、などなどによる賃金抑制で対処しようとするはずです。そうすると、さらに個人消費が落ち込み、さらにリストラが進行し・・・このデフレスパイラルが続くのです。

前稿でも述べたように、この賃金抑制と個人消費低迷のデフレスパイラルは、すでに90年代末から少しずつ進行しており、それが日本経済のデフレの大部分の原因でした。そのメカニズムが、消費税増税によって、いっきに増幅するのです。

では、増税後のデフレスパイラルは、どの程度の規模になるでしょうか?ここで、景気後退期に、リストラおよび賃金カットによって、どの程度賃金が抑制されたのかを示す「雇用弾性値」および「賃金弾性値」の過去の統計が参考になります。

雇用弾性値・賃金弾性値

これは、例によって『平成21年度労働経済白書』のp151から採らせてもらいました。90年代末の景気後退期では、GDP1%減につき、賃金総額が0.91%低下したことがわかります。2000-2002年ではそれが1.03%に増えています。これは、非正規雇用の拡大やリストラの合法化による、労働環境や雇用の不安定化が如実に表れています。もっとも、2007年度末からの景気後退過程では、2008年度の末までには雇用減が見られなかったため、雇用弾性値はわずかにマイナスになっていますが、実はその次の四半期から失業率の大幅な悪化が見られており、この景気悪化期全体で1.6%程度上昇していました。GDPの落ち込みがだいたい4%ですので、後退全期間の雇用弾性値は、概算で0.40程度だと思われます。賃金弾性値も引き続き悪化しているので、きっちり計算していないですが、景気後退過程全体では、1.1ポイント程度だったのではないかと推測するのは、おそらく的外れではないでしょう。

引き続き雇用条件が悪化していると考えるならば、次に、数年後、消費税増税で景気が後退したときに、賃金弾性値・雇用弾性値あわせて、1.2ポイント低下すると予測するのが妥当なところでしょう。さしあたり、GDP1%下落につき、給与総額が1年間で1%、次の1年間で0.2%低下する、と仮定してみます。

そして、この賃金低下が、そのまま個人消費の低下に直結すると便宜上仮定します。これはもちろん、現実にはありえないことです。本来は、失業保険の効果、預金取り崩しによる貯蓄率の減少なども考慮にいれないといけないのですが、一方で、賃金カットやリストラに遭ってない人も、雇用不安とデフレのため貯蓄率を増加させる可能性が高いため、計算を簡単にするため、この両者は相殺すると考えます。

さらに、もう一つ考慮に入れなければならないことは、賃金低下によるデフレは、実は98年度からすでに始まっているということです。消費税増税がなくとも、あるいは好景気であっても、賃金は年間わずかずつ減少していっていると、さしあたり仮定しておかないと、正確な予測が困難です。実際、1997年と2007年の名目GDPはどちらも515兆円ですが、給与総額は220兆円から201兆円と、約10%低下しています。とは言っても、これは00年代前半に給与が急激に下がったことを反映しているため、その点を差し引いて、年間0.7%ずつ給与総額は自動的に低下する、ととりあえず仮定しておきましょう。(このあたりの処理方法は、相当に議論の余地があります。)

ついでに、個人消費総額280兆円の内訳ですが、そのうちどの程度、民間給与所得から支出されているのか、それがかなりの難問です。マクロで見ると、日本人の平均貯蓄率はだいたい3-4%(国民経済計算による)なのですが、家計調査によると勤労者家計の貯蓄率は30%前後の高率を保っています。これは、高齢者の預金取り崩しを差し引いても、まったく計算があいません。ので、とりあえず民間給与所得者の貯蓄率を15%と仮定し、280兆円のうち、民間給与家計からの支出が170兆円、残りが110兆円と考えましょう。この110兆円の内訳は、公務員給与と年金(この二つでおそらく70兆円弱)、自営業収入、家賃収入、株式配当、預金取り崩しですが、これらは当然景気変動によっても変わってくるはずですし、年金は増えるはずですが、正確な計算がほぼ不可能なので、全体として、便宜上定数とみなします。

さて、これで準備が整いました。あとは、前稿で述べたように、現在の経済システムにおいて、個人消費と名目GDPがほぼ完全に連動する

具体的には

名目GDP≒個人消費総額÷55.5%

という条件を足して、エクセルで計算するだけです。結果はこちら。

消費税増税シミュレーション2

5年間でGDPが16.0%、10年で21.1%下落しました

 

(以前にTwitterでは5年で18%、10年で27%と書きましたが、なぜ違いが出たのか説明します。前回は、民間家計の貯蓄率を10%と考えましたが、調べた結果、15%の方がより実態に近いのではと推測し、変更しました。また、前回のシミュレーションでは、消費税増税にあわせて、毎年1.0%給与総額が低下させる効果があると考え、それらをあわせて、個人消費低下→翌年の給与総額低下を累乗的に計算しましたが、今回は0.7%定率で低下すると考え、消費税増税の効果のみを累乗化して計算しています。実際のところ、どちらがより正確な計算が可能なのか判断は難しいです。あるいは、この賃金低下を初期値にのみ入れて計算するべきなのかもしれません。いずれにしても、5年予測では、14-17%のGDP減少という結果が出ます。10年予測になると、さらに差が開くのですが、たぶんその頃には経済構造も変わっており、政府の施策も何かしら出てくるか、あるいは完全に大恐慌に突入しているので、この予測には意味がなくなっている可能性が極めて高いです。)

 

しかし、なぜ消費税をたった5%増税しただけで、ここまでのメルトダウンが発生するのでしょうか?たぶん直感的には考えづらいことですが、そのメカニズムを端的にあらわすグラフがこちらです。

消費税増税時の給与総額低下率

消費税増税で個人消費が(前年からの給与総額低下とあわせて)5%下落し、それが給与総額を5%以上削減させ、さらに個人消費の低下が続き、・・・この縮減プロセスが10年以上にわたって均衡化していく様子が理解できると思います。

 

以上が私の定量的なシミュレーション結果です。私が扱ったのは、むろん経済的現実それ自体ではなく、計算を容易にするために単純化されたモデルにしかすぎません。将来的に、私あるいは他の人が、より正確なシミュレーション、より正確な推測を行うために、もう一度、このシミュレーションにおいては、何が捨象され、何が考慮に入れられていないのか、説明しておきます。預金の取り崩しによる貯蓄率の変化は無視していますし、失業保険の効果についても考慮に入れていません。もちろん、その他の景気変動、為替など対外的要因、あるいは政府の施策については予測不能なので、捨象しています。また、最低賃金の効果も考慮していません。

さらにもう一つ考慮に入れていないのは、株価の変動や連鎖倒産、金融恐慌などですし、産業構造の変化も考慮に入れていません。というのは、この縮減プロセスでは、基礎的支出を担う産業についてはあまり影響がないでしょうが、選択的支出を担うサービス業などが、一定の時期を過ぎると持続不可能になり、倒産する企業が続出するでしょう。なので、産業構造も大幅に変化するはずですし、予測よりも失業率はむしろ高くなるでしょう。

また市場の心理的効果も含めて予測してみると、こういう風に事態は推移するんじゃないかと思います。消費税増税前に駆け込み需要があり、その次の四半期で、数十パーセント単位で個人消費が低迷します。ここまでは、市場も最初から予測しているでしょう。その後、ある程度回復しますが、増税前より回復しないため、その時点で経済学者や経営者たちは、消費税増税で個人消費が減ったことに(今更ながらw)気づき、その新たな環境に適応するために、各企業は賃金を抑制します。でも、その合成の誤謬の結果は予想していません。ごく一時的な縮小均衡だと思っていたのに、2年たっても3年たってもGDPが年率2%以上落ち続けるため、市場はその原因を理解できず、パニックになり株価が暴落、金融恐慌の発生、債務超過による連鎖倒産が発生するでしょうし、企業はより一層内部留保を高めようと賃金を激しく抑制し、家庭は自分たちの身を守ろうと貯蓄率を高め、加速度的に経済が急降下する。

まあ、もっとも、海外の投資家は(日本の市場よりもたぶん)賢いため、1997年の消費税増税時とまったく同じ事態が、さらに大規模に起きる可能が、実は最も高いのかもしれません。つまり、消費税増税=財政再建をしはじめて数ヶ月で、これからの日本経済に何が起こるかを予測し、円と株のを売り始め、銀行の債務超過から金融恐慌が発生し、一気に大恐慌に突入するというシナリオです。

発生時期はともかく、この十分に起こりうる大恐慌に対して、政府が何もしない訳もないですが、そもそも消費税を増税してしまう彼らの経済感覚では、適切な薬を投与できる可能性は極めて低いと考えざるを得ません。つまり、あいも変わらず量的金融緩和や法人税減税、財政再建などで対処しようとして、経済を完璧に崩壊させるでしょう。

あるいは、政府が仮に正しい手段、すなわち財政出動をしたとしても、おそらく百兆円規模の支出を迫られるため、かえって財政赤字が増大するでしょう。

 

以上が、私の暫定的な予測です。批判・異論・反論歓迎いたします。私の議論を、消費税増税について、より正確に考える際の、一つの踏み台にしてもらえればと願っています。

2010年7月31日土曜日

消費税増税のシミュレーション 1 メタ理論編

消費税増税で日本経済がどうなるかシミュレーションしてみたので、その根拠と計算方法、そして限界を示しながら説明したいと思います。

先日、Twitterで、消費税増税後5年後、10年後のシミュレーション結果を提示したのですが、多くの人は、私のシミュレーション結果と、経済学者や政府が言っていることとの間に大きな乖離があることに驚いたことでしょう。なぜ、かくもかけ離れているのか、それは経済にかんする理解の相違に基づくわけですが、まずそれを本質的なところからまず説明してみたいと思います。

まず、一国の経済システムは主要な四つのプレイヤーに分かれます。企業・家庭・銀行・政府(日銀含む)、です。企業の内部にも様々な産業があり、それらが(たとえば卸売業と小売業を物流業が媒介するというように)複雑に連関しあっているわけですが、そうしたことを捨象すると、だいたい図のようになります。

国家経済モデル

この図では線はお金の流れを示しています。青い線は、たとえば商品や労働力と引き替えにお金を支払う、実体経済のコアの部分です。言い換えれば、この青の線と逆方向に、モノやサービスが回り続けています。緑の線は、お金の貸し借りをあらわしており、そこには国債購入や年金なども含まれています。赤い線は、税金をあらわしています。この図には、いくつかの要素が欠けていて、たとえば日銀が米国債を買ったり、銀行や企業の海外への資金流出などもあるはずですが、とりあえずその実態がどれぐらいの規模なのか調べていないので、今回は省きました。

この図のポイントは、日本経済の実態にあわせて、あくまでだいたいですが、流通金額と線の太さと比例させて書いているということです。そして、図のようにお金が、時に速くなったり遅くなったりしながら、ぐるぐる回りつづけて自らを再生産する、それが経済システムなのです。

ここからわかるように、私たちの経済システムの中核は、家庭と企業、そして企業間の経済循環であって、その他の取引は、それを補完したり調整したりする、いわば周辺部分なのだ、ということです。たとえば、今の日本のGDPはだいたい500兆円ですが、民間給与の総額が200兆円、個人消費の総額が280兆円です。それに対して、グローバル化とか言われていますが、輸出総額は70兆円、輸入総額は60兆円程度にすぎません。国内での企業間取引もあわせると、海外との貿易は、国内経済の、たった5分の1以下の影響力しかないのです。

あるいは、「みんなの党」などリフレ論者が主張する量的緩和ですが、それは政府・日銀が、銀行などから直接国債を買うことで資金供給しましょう、そしたら「理論上は」お金が溢れてインフレになりますよ、ということです。でも彼らは、2001年からの量的緩和の「実際の」効果の程をあらわすこのグラフについてどのように説明するつもりなのでしょうか? 金融緩和の失敗

このグラフは、リチャード・クー『「陰」と「陽」の経済学』の45ページにあります。量的緩和をおこなっても、民間向け信用は減り続けています。なぜ、理論に反して、このような事態になったのか、リフレ論者は説明できているのでしょうか?もしそのメカニズムを彼らがわかっていないのだったら、今後も同じ政策を採用しても、同じ失敗を繰り返す可能性が高い。普通の人ならそう考えます。

例えば、栄養失調患者の症状を示している患者がいるとしましょう。直感的には、栄養を与えれば栄養失調からは回復できる、と考えます。そこで医者は、ニンニクエキス、うなぎ、などを患者に与えますが、どんどん弱っていきました。そこで医者は「栄養がまだ足りてない」と考え、ニンニク20個、ウナギ10匹で効かなければウナギ30匹、そしてダメなのでスッポンやマムシの生き血を大量に飲ませます。その努力に反して、患者はどんどんと衰弱していく・・・。まさにこんな印象を上のグラフは抱かせます。

この医者の何がダメだったのでしょうか?「思い込みが強いところと、反省しないところ」。確かにそのとおりです(笑)。反論の余地はありません。まあ、理論的な間違いを言えば、栄養を与えれば、自動的に栄養失調が改善されると考え、栄養が吸収されるメカニズムについてまったく考慮していないのが間違いだったのです。つまり、患者は栄養摂取不足ではなく、胃腸が極度に衰弱していたために、栄養が吸収できないのが、栄養失調の原因だった。にも関わらず、医者はどんどん強い食べ物を大量に与えていって、胃腸をさらに衰弱させ、かえって栄養失調を促進していたのです。

まあ、実際にはこんな医者は非常に少ないと思いますが、マスコミに出てくる経済学者はこの手の人間が大部分です。理論によって現実が動いていると信じている。だけど、理論より現実の方がはるかに複雑で、人間には、その全体像を認識することも把握することもできません。その現実をなんとか理解し、予測しやすくするために、現実を部分的に取り出して単純化したのが理論なのです。だから、すべての理論、とりわけ社会理論と経済理論は、それが成立する文脈や経済システムの条件を、常に念頭においておかないといけないのです。(このあたりの話は、カール・マルクス「経済学批判 序説」に書いてあります。)

先のリフレ政策の例で言えば、経済学では、中央銀行の流動性供給とマネーサプライ、そして民間企業への貸し出しが非常に強く連動することになっています。上のグラフをみると、確かに90年まではその連関がはっきり見られます。ですが、それ以後は、この三つの指標が完全にばらばらに動くようになってしまったのです。なぜか。それは、この連動性は、つねに民間の資金需要が存在することを条件としているからです。当たりまえですよね。だって、日銀がお金を銀行に貸しても、企業が銀行にお金を借りなければ、市場には回らないわけですから。そして、リチャード・クーによれば―それは私は明らかに正しいと思う訳ですが―、90年代、多くの企業がバブル崩壊で債務超過になってしまったせいで、お金を借りるどころか借金返済にまわったわけです。今でこそ、ほとんどの企業は債務の返済を完了して綺麗になっているのですが、それでも企業はお金を借りようとしません。クーは、それをバブル崩壊を経験した経営者による借金恐怖症のせいだと主張していますが、僕の考えは微妙に違います。彼がいう、投資不足による「バランスシート不況」のメカニズムは2003年頃に終わっているのですが、1998年から、サービス残業の拡大と非正規雇用の拡大による、給与削減メカニズムが作動しており、それが個人消費不足となってデフレを生み出している。経済全体のパイが縮小し続けているため、投資需要が生まれない。こういうことだと思っています。ともかく、銀行から企業へ、企業から家庭へ、家庭から企業へ・・・こういうお金の流れがスムーズに働いて、初めて金融政策が意味をなすわけです。その経済循環がないのに、銀行をお金でじゃぶじゃぶにしても、企業はそもそもお金を借りようとしないし、どこかでバブルを生み出すだけですし、もしそれでもなお企業がさらに設備投資をしたとしたら、生産性が増大することで、リストラを促進し、かえって需要と供給のあいだにギャップがうまれ、デフレを生み出してしまうのです。それは、胃腸が弱ってる人はあまり食欲がないし、その結果栄養失調になるけれど、でも無理に食べさせるとかえって胃腸を壊して栄養失調を促進するのと、構造的にはほぼ同型です。

経済学者は、理論が現実から抽出された、単純なモデルであることを忘れ、理論それ自体を信じはじめます。そして、現実は理論どおりに動か「なければならない」と考え、現実がもはや理論と整合しなくなっていればいるほど、理論に固執するのです。研究者たるもの、本来は、理論と現実の齟齬こそを、より整合的な理論へと破壊的創造を行うための一つのチャンスであると受け止めなければならないはずです。そのための一つの導きの糸(というのは現実自体は認識ができないので)が、最初にあげた国家経済の再生産モデルです。この図をもう一度みてください。経済学者が精緻に理論化していて、マスコミで「経済学者の知見」として取り上げられるのは、政府から銀行への流動性供給や、政府から企業への公共事業、銀行と企業の間のお金の貸し借り、税制、そして輸出と輸入です。ですが、これらはすべて、はっきり言ってしまえば、どれも多くが10兆円単位の、日本の経済システムの周辺部分にしかすぎないことが見てとれます。もちろん、それらは条件によっては重要な調整機能や逆機能を果たします。だけど、経済システムの根幹は、国内での民間給与→個人消費→(企業間取引→)民間給与という循環であることは、この全体像を見る限り疑いようもないことです。ですが、この領域は、ほとんどの経済学者の認識からすっぽりと抜け落ちているのです。

それにも関らず、実は、00年代以降の日本経済は、まさにこの基底的な循環によって、構造的に強く規定されています。それが、経済学者の解説や予測がまったく的外れになった理由ですし、まさにこのメカニズムの理解によって、消費税増税のシミュレーション結果が、彼らと私の間で決定的に異なる理由なのです。

00年代以降の日本経済が、民間給与と個人消費のサイクルによって強く決定されているということを、まずグラフで示してみたいと思います。年収とGDPデフレーター

まず、一人当たりの年間給与とGDPデフレーターとの相関関係をあらわすグラフです。もちろん、年間給与が左目盛りで、GDPデフレーター(積年)が右目盛りです。だいたい、2002年ぐらいから、給与所得とGDPデフレーターが非常に緊密に連動していることがわかると思います。これは、デフレの構造的要因が、給与が下がる→個人消費が低迷するため、企業が値段を下げる→リストラや賃金カットにより給与が下がる、というメカニズムによって生じていることを強く示唆しています。厚生労働省が発行している平成21年版労働経済白書も、90年代半ば以降のデフレは、このメカニズムによってデフレのほとんどすべて説明できると主張しています(p110)。また、「まとめ」の次の論述は、非常に簡潔で的確です。私の解説と冗長になりますが、引用しておきます。

バブル崩壊以降、我が国の状況は一変した。総需要の停滞は著しく、完全失業率は継続的に上昇するとともに、1990年代末からは物価の継続的な低下がみられるようになった。こうしたもとで、企業は賃金抑制傾向をさらに強め、それがまた消費と国内需要の減少へつながり、さらなる物価低下を促すという、物価、賃金の相互連関的な低下が生じるようになった。総需要が減退し、価格が継続的に低下する状況は、企業の前向きな投資環境として好ましいはずもなく、我が国経済は極めて深刻な事態に直面した。(p212)

「労働経済白書」の論述の明確さに比して、経済学者の論じるデフレ対策のなんと愚鈍なことか。デフレ対策をするならば、まず企業が従業員の賃金を下げ続ける事態に歯止めをかけなければいけない。まして、好況の時にも平均給与を下げ、派遣社員を増やすことで給与総額を抑制していれば、個人消費は増えず、経済は自律回復のしようがない。この自律回復を妨げている原因が、企業の内部留保の拡大、その反面の被害総額年間40兆円にものぼるサービス残業と、非正規雇用の拡大による賃金抑制なのです。(前回のブログで、非常に単純なモデルで、儲けようとした人がかえって収入を減らしたことを思い出してください)。ここにメスを入れなければ、デフレ対策など絶対に不可能です。

さて、もう一つ、個人消費と名目GDPとの関連についてもグラフで示しておきます。

個人消費総額と名目GDP

給与総額と個人消費総額が左目盛り、名目GDPが右目盛りです。これもまた、2001年ぐらいから、驚くほど個人消費総額と名目GDPが緊密に連動しているのがわかると思います。具体的に言うと、名目GDPのうち個人消費が占める割合が、55.5%から56.5%の間で安定しているのです。

念のために言っておきますが、常に「GDPデフレーターと平均給与が連動し」し、「個人消費と名目GDPが連動する」という相関関係が、常に、経済法則という真理であると主張しているわけではありません。そうではなく、ここ10年ちかい日本の経済システム全体の再生産構造においては、この二つの要因が、決定的に日本経済を規定しているおり、そのため近似的に、上記が「経済法則」である「かのように」、私たちの目に映っているだけなのです。

(ちなみに、経済・社会システム論者であったマルクスの労働価値説も、同様の議論です。つまり、19世紀イギリスの経済システムにおいては、労働力の値段と利潤率が市場全体で平準化する傾向にあったため、あたかも投下された労働力に比例して値段が決定される「かのように」見えている、言い換えれば価値法則が成立している「かのように」見える、そのシステム論的なメカニズムをマルクスは「資本論」で示そうとしていたのです。)

では、この二つのグラフの背後にあるメカニズムを、一貫したものとして理解するのはけっこうな難問です。もう一度説明すると、平均給与の低下はGDPデフレーターと連動しています。それは、給与が下がるとモノが売れなくなるため、企業が利益を維持するために、結局給与水準の下落と同程度値下げをせざるを得ない、こういうメカニズムが働いていることが容易に予測できます。その一方で、平均給与が下がり、従業員(ほぼ非正規雇用)が増えているため、民間給与所得は横ばいになっていますが、個人消費はわずかに増えており、それが日本経済を下支えしていたわけです。問題は、個人消費の微増と給与総額の横ばい、この間のギャップをどのようにして説明するかです。どうも様々な要因があるようで、基礎的支出の物価上昇が半分以上を占めることは確かなのですが、その他が説明できません。収入面で言えば、年金が5兆円程度増えているのは確かです。もしかしたら、企業の利益拡大に伴って、富裕層の消費が増えたのかもしれません。

ともあれ、民間給与ー個人消費というサイクルと、経済システムとの非常に強い連関が現在見いだされることは、十分に示せたと思います。この連関が維持されている以上、消費税増税がどのような結果を生み出すのか、ある程度の精度のシミュレーションを示す準備が整ったわけです。具体的なシミュレーション方法とその結果については、次回のアップデートで提示します。

2010年6月20日日曜日

経済成長とはなにか―経済システムを理解するための簡単なレッスン―

色々書きかけで申し訳ありません。僕の癖なので、たぶん一生なおりません(笑)。
最近の僕の関心が、消費税増税問題に向かっていました。で、消費税増税でどのような怖ろしい事態が起こるのか、きちんとシミュレーションを示しておこうと思った。のですが、この問題の根本に、一般人のみならず、経営者、そして経済学者の、経済というものに対する根本的な無理解があることに気づきました。はっきり言ってしまえば、彼らが経済とはどういうものなのか、まとまったイメージができておらず、全体像をまったく把握していないのが問題なのです。
たとえば、消費税を増税することに経営者や経済学者の大部分は賛成しています。だけど、消費税を10%に増税しても日本人の給与の総額は変わらないので、個人消費が4.5%落ち込むことは確実です。たとえば、私の月給が10500円として、そのお金で1万円分のモノを今は買えます。ですが、消費税を10%にすると、9545円分しか使えなくなります。
僕は、消費者が単に損をします、といいたいのではありません。そうじゃなく、個人消費が4.5%おちるということは、消費者にモノを売っている企業、サービスを提供している企業、それらの製造業、物流業まで、全体として売り上げが自動的に4.5%下落するということを意味しているのです。そして、驚くべき事に、その事実を指摘している経済学者や経営者が、少なくとも表立ってはほとんどいないのです。はっきり言わせてもらいますが、彼ら、朝三暮四の猿※より頭悪いです。

結局、この問題は、経済を循環するシステムとして理解できていない、ということに帰着するのではないかと思うわけです。だから、消費税を「消費者が負担するお金」としてしか考えられず、それが企業の売り上げにどのように影響するのかも想像ができない。
また、今、法人税減税と消費税増税がセットになって景気回復のためのパッケージとして提示されているのは、法人税増税が企業の利潤を低下させるから経済成長を阻害するのに対し、消費税は消費者からお金を取るため経済成長を邪魔しない、というのが彼らの暗黙の前提だからでしょう。言い換えれば、経済学者や経営者・政治家たちは、経済成長とは企業が利潤を最大化することだ、と考えている。
でもそれははっきり間違っています。経済成長とは、生産→分配→消費(→生産・・・)の循環を強化し、その速度を高めることです。そして企業の利潤を最大化することが経済成長に繋がるのは、インフラを整備する高度経済成長期や、政治的・経済的植民地を拡大し続ける帝国主義的時代など、経済のパイが拡大しつづけているごく一部の特殊な条件においてのみです。多くの成熟した経済システムにおいて、公平な分配がされていないということは、経済を停滞させるどころか、その規模を縮小させる自滅的な行為なのです。本稿では、ぜひ皆さんに、そのことを理解してもらいたいと思います。

「経済成長とはどういうことか」を、もっとも簡単なモデルで説明します。僕とあなたが小石100個と1000円を交換する閉鎖的な経済システムです。全世界には、僕とあなたと小石と1000円札しかないと考えてください。小石じゃ意味が無いと思うなら、フライドチキンでもマックナゲットでも構いません。

まずあなたが小石を100個持っていて、僕が1000円をもっています。それを一日に一度交換するとしましょう。まず、僕が小石を100個もらって、1000円札を渡します。次の日、あなたの小石と私の1000円を交換します。さらに次の日、私の小石をあなたの1000円と交換します。一ヶ月が30日だとすると、私とあなたの月収はそれぞれ15000円で、そのお金で小石をそれぞれ1500個買えました。この2人きりの経済システムの月間GDPは30000円です。
さて、このGDPを二倍にするにはどうしたらいいでしょうか?千円札の代わりに、今は影も形も見られない2000円札(あれ、そういえばほんとどこに消えたんだろう?w)を導入してもあまり意味はないですよね。小石の値段が変わらなければ2000円の半分しか使えないし、小石の値段が半分になれば、実質GDPは変わらない。なので、小石の量も二倍にする。それが普通の答えかもしれません。
でも、もっとシンプルな解決法があるんです。1日に1回交換していたのを倍の速度にして、1日に1往復交換する。つまり、私が今日小石を売って、同じ日に買い取る。そうすると、月収がそれぞれ30000円で、そのお金で3000個の小石が買えたことになります。動いているお金が1000円札1枚であることには代わりありません。でも交換速度が倍になったことで、経済規模が月間GDP30000円から60000円と、2倍になったのです。

えっと、論理的に一番シンプルなモデルにしたため、登場人物をふたり、商品を一種類にしました。まあ、ほんとのことを言えば、商品が1種類しかないなら、交換することに意味はないですよね。でもイメージがつかめれば良いんです。商品を2種類にしても一緒です。私がマックナゲット生産者で、あなたがハーゲンダッツやさん。で私はハーゲンダッツが大好きで、あなたがマックナゲット大好き。今日マックナゲットをあなたに売って得たお金で、次の日ハーゲンダッツを買う、という交換速度を倍にして、今日すぐにハーゲンダッツに使っちゃお☆ってことにしちゃうと、お互いに収入が倍になって、しかもハーゲンダッツもマックナゲットも、2倍食べれますよね。
ともあれ、経済とは、生産して、分配・交換して、消費する、そのサイクルだということが理解してもらえればそれで良いです。そして、経済規模が思ったより増えない、あるいは落ち込む場合、その経済システムのサイクル(再生産構造)のなかで、どこがボトルネックになっているのか、それを考えなければいけない。それも、なんとなくイメージしてもらえるのではないかと思います。
最初モデルに戻ります。わたしがお金が好きなので、できるだけ手放したくない><って思って、私がお金を持つターンでは、2日間滞留させるとします。そうすると交換が往復するのに3日かかることになるので、それぞれの月収は10000円、小石は1000個、月間GDPは30000円から20000円と、33%落ち込んじゃいました。ここで面白いのは、この経済の落ち込みの原因は私の強欲にあるわけですが、みんな(って2人ですが(笑))が等しく損をするってことです。僕の強欲は、単にお金を持ってるターンを長くしただけで、ぜんぜん自分の得になってません。なので、こういう場合、必要以上に長くお金を持てばレッドカードを出すとか、逮捕して監禁しちゃうとか、そういうことをすれば、経済は回復します(笑)。

さて、僕の強欲が、経済システム全体の成長にとってプラスの結果を生み出さない、という話をしましたが、もっと現実に即した強烈なお話しをしましょう。私がこのシステムで、自分の利潤の最大化を目指したらどうなるのか、をシミュレーションしてみます。私(ジャイアン)はあなたより力が強くて傲慢、あなた(のび太)は力が弱くて優しいと仮定します。(あ、あくまで仮定ですよ。)なので、この力関係を反映して、私があなたに売るときは小石100個で1000円、あなたが私に売るときは小石100個で500円とします。私が最初小石を100個もっているため、あなたが1000円で小石100個買います。次の日私はその100個を500円で買います。私はいま手元に、小石100個と現金500円があるので、500円タダで儲けた計算になりますね♪すばらしい成果です。
でも、次の日からなんだか雲行きが怪しくなります。あなたは500円しかもっていないので、次の日、小石を50個しか買えないのです。私の手元には、小石が50個、現金が1000円あります。その50個を、翌日私は250円で買い取ります。さらに次の日、あなたは250円しかもってないので、25個しか買えません・・・・。こうやって、私が儲けた分、交換は半分ずつ縮小していくのです。
ここでそれぞれの月の収入を考えてみましょう。私の月間の収入は、1000+500+250+125+62.5+31.25+・・・≒2000円で、小石が100+50+25+・・・で200個買える。あなたの月間の収入(つまり私の支出)は500+250+125・・・≒1000円で、最初の手持ちの1000円とあわせて、小石を200個買ったことになります。このシステムでは、私はあなたの倍儲けたことになります。
ですが、あれ?私はほんとに儲かってますか!? だって、公平な交換のシステムだったら、私はもともと15000円の収入があったし、小石だって1500個も買えたんですよ。なのに、私が強欲を出して儲けようとしたとたん、7.5分の1の収入になっちゃいました><。システム全体の月間GDPで見ても、3000円なので、経済規模は10%まで落ち込んでます。
で、さらに悲惨なのは翌月です。不公平な交換を繰り返したので、その前の月までに、私の手元には小石が100個、1000円、ほとんどもってることになります。それに対し、あなたは事実上一文無し、鉄鎖の他には所有するモノがなにもない完璧なプロレタリアートです(笑)。でも、なにもないってことは、交換ができないってことです。なので、次の月には、経済システムそのものがもうなくなっちゃってます(笑)。
まあ、さすがにそうなると、僕も困っちゃうので、いくら頭が悪くても、どこかで気がついてもうちょっとマシな解決策を探って生き延びようとするでしょう。たぶん、どこかで僕が売る小石の値段を少しずつ下げて、できるだけあなたに買って貰おうとするでしょう。まあ、最初から小石100個500円で売ってたらいいのですが、そうすると、自分の交換とあなたの交換とが同じ条件になっちゃう(笑)。「そんなことしたら儲からないじゃないか、儲からなければ経済は発展しない」と思い込んじゃってるので、やっぱり有利な条件は維持しようと思って、「100個750円」ぐらいまで値段を下げて様子見をするんじゃないかと思うわけです。もちろんデフレが起きますし、それでも売れないので、交換速度がどんどん落ちていきます。面倒なので厳密なシミュレーションはやめときますが、破滅までは行かなくても、経済規模が大幅に縮小するのは確かです。
結局なにが問題なのか。それは交換の際に「相手に充分にお金を渡していない」ことです。言い換えれば、自分が儲けた分、相手はお金が減っていくから小石が売れないのです。そうなってから、どんなにがんばってセールスをしても、小石に綺麗なラッピングをして相手の気を引きつけても、無駄です。相手がどんなに小石が欲しくても、買うお金がないんですから(笑)。だから、私は「公正な交換をしないと結局自分が損をする」、「自分だけが利潤を最大化しようとすると経済システムが破壊される」っていう根本的な事実に気づかないといけないのです。

現実の経済システムに関しては、もうちょっと(っていうかはるかに)構造が複雑です。生産設備を生産したり、税金があったり、あるいは銀行システムがあって、利潤や貯蓄が他の部門に投資されたり。だけど一般化していうと、この生産→分配→消費というサイクルこそが経済システムであるという事実には代わりありません。それさえわかっていたら、経済学者がいまメディアで言ってることの大半が、さっきのモデルの「儲けようとして経済を壊した僕」と同じぐらい、頭がおかしいことが理解できると思います。たとえば、内需が足りないから需要創出イノベーションしなきゃとか言ってる人がいますが。企業が支払う給与総額が一定なのに、供給側の努力で内需が増える余地などないし、少なくともゼロサムゲームで消費のパイを奪い合うだけなのが、どうしてわからないのでしょうか。
それとか、消費税増税で年金不安が解消されて、消費が増えるからデフレが解消する?(笑)とか。解説は不要だと思いますが、あまり馬鹿な事を言うのもほどほどにしてもらいたいな、と思います。
とりあえず、本稿で日本経済にかんして私がここで言うことは一つだけです。唯一有効な経済政策とは、経済システム全体の循環の中で、一番弱いところ、もっとも滞っているところ、そこを強化したり流れをよくしたりすることで、全体の流れをよくすることです。現在の日本の経済システムのサイクルの中で、ボトルネックになっているのは個人消費です。より厳密に言えば、企業から労働者への貨幣流通チャンネル、つまり給与の支払いが抑制されている事が根本的な原因です。そして、この根本的な原因は、サービス残業という名の不払い労働です。サービス残業で企業が労働者に違法に払っていないお金は年間50兆円近く、GDPの1割に達しています。それだけ払っていなければ、お金が経済全体に回るわけがありません。
というと、「そんなに払ったらほとんどの企業が倒産する」とかいうひとがいますが、経済が循環するシステムであることさえ理解出来れば、その50兆円の大部分がさらに企業の売り上げになり、企業の業績も大幅に向上する、(そして労働生産性も大幅に向上する)ことがたやすくわかると思います。逆に、企業が外需などでどんなに儲かっても、それを不払い労働の強化によって対処し、労働者へ全く還元しようとしない現状では、経済の自律回復など望むべくもありません。
サービス残業が日本の経済と社会にどのような影響を与えるのかは、またそのうち稿を改めて、きちんと説明したいと思います。ともあれ、今回は「企業による利潤の最大化」という経済学者・経営者の暗黙の前提こそが、じつは経済を縮小させる最大の原因なのだ、ということだけ理解していただければと思います。

※朝三暮四 もちろんみなさん知ってるかとは思いますが、確認のため(笑)。非常に猿と戯れるのが好きな男がいた。この男は家族のことも放っておいて、猿を可愛がるものだから、餌の時間になるといつも猿が寄ってくる。ところが、それが原因である日、奥さんに「猿の餌を減らしてくれないと、子供たちの食べる物までなくなってしまう」と窘められてしまう。困った男は何とか猿たちを籠絡しようとし、一斉に呼びかけた。これからは「朝には木の実を三つ、暮(ばん)には四つしかやれない」と告げるも、猿たちは皆不満顔。それならば「朝は四つ、暮は三つならどうだ」と言うと、合計七つと変わらないにも係わらず猿は皆、納得してしまったのである。

2010年6月7日月曜日

菅直人首相への公開書簡

先ほど、菅直人首相にメールを送付いたしましたしたので、全文アップいたします。あ、ちなみに、面識はありません。

 

件名 消費税増税は恐慌と財政破綻を同時にもたらす可能性があります。ご再考ください。

菅直人首相。

はじめまして。
社会システムの研究をしている、岡田直樹と申します。

鳩山首相の就任以来、民主党を強く支持しており、
また「最小不幸社会」という菅様の理念に強く賛同してきました。

まずは首相就任おめでとうございます。
鳩山首相の立案のもと、小沢氏と三人で見事に「クリーンな民主党」というイメージを、
マスメディアを逆利用して作り上げることに成功したことを、素直にお祝い申し上げます。

そうすると、当然参議院選挙に向けて次の一手は、「企業献金の全面禁止」をマニフェストの中心に据えることになるかと思います。
党内で反対もあろうかと思いますが、首相の手腕を期待しております。


ところで、5月8日の「責任」と題された文章を拝読しました。
確かに、国家財政の問題は非常に深刻な状態にあり、早急に対処が必要です。
しかしその対処法として、消費税増税は、考えうる限りで最悪の選択肢であり、大恐慌と財政破綻を同時にもたらしかねないことを、菅首相には理解していただきたく存じます。

経済システムは、単純化すれば、生産-分配・交換-消費(→生産・・・)サイクルによって成り立っています。
そのサイクルが滞れば、経済は停滞し不況に陥ります。
各種経済指標を見ていると、現在の日本経済のボトルネックは明らかに個人消費です。
その原因は、企業がサービス残業という名の不払い労働を年間40兆円以上に拡大させ、
労働者から消費する時間とお金を奪い、非正規雇用を拡大させることにより、給与総額を抑制しつづけたことです。
このボトルネックを放置しては、日本経済の自律回復はありえません。

消費税を増税するというのは、この個人消費を締め付ける行動です。
消費税をさらに5%アップすることは、給与総額は変わらないので、単純計算で個人消費を4.5%縮小させます。
この消費部門の低下は、生産部門など、他の分野に波及し、連鎖倒産・恐慌を引き起こしかねません。
そうなると、財政収入は思ったより伸びないどころか縮小し、さらに大規模な財政出動を余儀なくされます。
正確なシミュレーションが必要となりますが、最悪のシナリオでは大恐慌と財政破綻が同時に起こるというシナリオまでありえます。
そうなると、日本の経済も社会も、完全に死滅します。
前回、1997年に消費税を増税した後、恐慌になり、、財政出動を余儀なくされ、
かえって国家財政が大幅に悪化したことを考えてください。

繰り返しますが、国家財政の均衡化は非常に大きな課題であり、
それに対して首相が責任感を感じていらっしゃることを、私は嬉しく存じています。
ただ、増税は、経済システムのボトルネックとなっていない余剰部分から取らなければ、
悲惨な結果を生み出してしまう、そのことを日本のためにも、もちろん菅首相のためにも、ご理解いただきたいのです。

なお、このメールは、公開書簡として、私のブログにアップさせていただきます。
あらかじめご了承ください。
http://ishtarist.blogspot.com/
お返事をいただけるのでしたら、その際、ブログへの公開・非公開の可否もご指示いただければと存じます。

大変なご多忙の中、恐縮ではございますが、ご検討いただければと存じます。

2010年6月4日金曜日

政治的決断について。その1

鳩山首相のために

昨日、鳩山首相が退陣表明を行いました。鳩山さんについて、とりわけ普天間問題の県外移設という約束を守ることができなかったという点から、政治家としての資質を問うような言説が流布されています。だけど、僕個人の感想としては、これほどまでに、政治的戦略、そして政治的決断というものの意味を理解している政治家を日本で見たことがありません。他人を思いやり、理想とヴィジョンを語り、なおかつ政治的戦略というものを理解している。彼はオペレーションズリサーチを専門とする理系の研究者でで、スタンフォード大学の博士号を取得しています。そのような偉大な政治家をこのような形で失うことは、僕にとって、そして何よりも日本の将来にとって、あまりにも大きな傷手です。

なぜ、一貫して普天間問題の海外移設を希求してきた鳩山さんが、自らの職を賭してまで日米合意を最優先したのか、その真意は、今の僕には充分に推し量ることができません。私たちが得られる情報から推定するならば、普天間代替移設の海外移設を強行に求めてグアム移転を先延ばしにするよりも、むしろグアム協定で規定されている海兵隊の移転の履行とより一層の負担軽減策により、沖縄の受苦を実際に少しでも和らげる道を取ったのだ、ということでしょう。言い換えれば、名にこだわるより、実を取ったということです。

だけど、それだけでは説明がつかないような何かもまた、存在する気もします。私たちが知ることができない安全保障上の問題があって、そのため現在、日米同盟を最優先せざるを得なかった。おそらくそれは韓国の哨戒艦沈没事件と深く関わっている、そのことを鳩山首相の一連の発言は、強く示唆しているように思えてなりません。

 

いずれにしても、彼の判断がいかなる政治的・権力的・暴力的文脈の下でなされ、どのような意図や戦略があり、またその判断が適切だったのかについて、現時点で僕はこれ以上述べることができません。たぶん、鳩山さん自身が、そのうち自らの言葉で語ってくれるのを待つしかないのでしょう。

5.28日米合意が、微妙ながらアメリカ政府に譲歩を勝ち取っていたにしろ、辺野古という文字が記されてしまったということ、それは抗いがたい事実です。ですが今や、これを鳩山首相自身の意図(裏切り)に問題があった、あるいは資質に問題があった、という非常に幼稚な政治的見解が幅をきかせています。また連立与党の一部の政治家が連立を離れ、倒閣運動を起こすに至っては、彼女たちもまた、単なる主体の意志によって政治的決定が可能であるかのような、観念論的でナイーブな政治感覚を持っているように私には見えた。(僕の思い込みだったら本当にごめんなさい。)だけど、政治的判断とは、単に正しい/正しくないという次元で行われるべきものではない、政治的決断というものは、単にできる/できないとかそういうものではない、と僕は声を大にして言いたいのです。少なくとも、意志によって政治的な決定ができると信じている政治家が、実際に首相の地位にあったとして、鳩山さん以上のことができたかどうか。僕にはとてもそうは思えません。ヴィジョン・目標があったとして、それにむけてどのように戦略を練り、真意を気づかれぬように隠微に行為し、場合によっては相手の弱点を突き、自分の要求を相手にのませるか。そうした非常に高度な戦略的思考をもって相手に対峙して、それでもなおかつ負け、譲歩を強いられることがある。まして、安保マフィア・官僚・マスコミ・党内の反動派・そして国民の集中砲火を浴びている状況で、なおかつ前進しつづける、それがどれほど困難を極めることか。それでもなおかつ、前を向いて歩み続け、身を引くことによって、日本国民を護りながらさらに前進しようとする鳩山首相の政治的決断に、僕は心から敬意を表したいのです。

断言してもよいですが、日本で最も、普天間代替施設の海外移設のために努力してきたのは、鳩山首相です。そして、それでもなお、日米合意に現段階で「辺野古」という文字を記さなければならなかった、そのことに日本で最も責任を感じ、また鳩山首相を責めているのは、鳩山由起夫さん自身だと、僕は確信しています。だからこそ僕は、この文章を彼に捧げたいのです。

他者の政治哲学へむけて

5.28をめぐる情勢と、その後の首相の退陣という、政治戦術的にも僕の心境としても、非常に複雑な状況において、政治的決断とはいかなることなのか、それを現在の文脈とは切り離して、一般論として語りたい、ここ数日そう思っていました。それが、今僕がこの文章を書いているモチベーションです。だけど、僕が言いたいことを、簡潔に説明するのはとても難しい。あるいはそれは、「政治的決断には根拠がない」、あるいは「政治的決断とは、正しい/正しくないの問題ではない」、とひとまず要約できるのかもしれません。だけど、それは盲目になることでもなければ、相対主義的に自己正当化するものでもない。むしろ、政治的決断は、決して自らを正当化することができない、だからこそ決断はなさねばならないのだ、ということです。

たぶん、私が「政治的決断」という言葉で言わんととしていることを本当に理解してもらうためには、「政治」と「決断」という切り離しがたい概念それぞれについて、私の考えを説明しておく必要があるでしょう。

「政治」とはいかなることか。ご存じの方もいると思いますが、ある種の―おそらくは20世紀で最も有名な政治哲学者の―議論において、「政治」あるいは「公共性」とは、他人と共通世界を作り、その中で自らの独自性を証し立てていくこと、と定義されています。そうした行為に意味があるのか、あるいはそもそも原理的に可能かどうか、ということはさしあたりおいておきましょう。だけど、この定義だと本来、別に労働者が仕事終わったあと、パブで野球を見ながら監督論に花を咲かせても、あるいはサラリーマンが居酒屋で職場の愚痴を言っても別に構わないでしょう。その政治哲学者がどう言おうとそんなことはほとんどすべての人間がそれぞれの場所で常にしていることです。でも、そんなものを人は普通、政治とは言わない。少なくとも、政治的であると言われる組織に本質的な何かしらが、その定義からは導き出せない。共=現前という「政治」概念の定義においては、まさに政治の政治たるゆえんが完全に欠如しています。

実際の政治というものは、全く正反対の事柄です。ある組織、たとえば政党や国会、官僚機構などがすぐれて政治的組織であるのは、それがその場にいない人間、その場に現前しえない人間の生活や苦しみ、そしてさらに言えば生と死を左右するほどの影響があるからに他なりません。それは、単に国会議事堂の物理的限界によって数千人以上の人間がそこにどうしても集まれないから、あるいは数万人の人間が同時に話し合うことが事実上不可能であるから、代理として国会議員に決めて貰うしかない、というだけの理由ではありません。たとえば政治的組織は、地球の反対側の災害支援を決定すること、冤罪で死刑になった人の無念の思いを聞き届けて取り調べを可視化すること、あるいはあるいは今後生まれてくる人間に十分な生活保障基盤を与えること。政治組織は、そうした諸々の空間的・時間的・社会的他者の生死に直結する事柄を決定するのです。

逆に、たとえば先の政治哲学者が国会議員になったとましょう。彼女は自分の仕事を、自分のアイデンティティーを証して永遠に名を残すことであると考えており、またその場に現れえない労働者たちを動物として、心から侮蔑しています。彼女が具体的に何をするは知りませんが、自分の名をあげるためだけに、労働者を徴発し、他国と戦争を起こしてもおかしくはない。でもそんな自己中心的な政治観念と傲慢な耳をもつ人間は、是非とも選挙で落とさなければ、社会に非常に有害な結果を招くことだけは確実なように思われます。

政治とは、より正確に言えば政治性の本質とは、他者のために行為すること、そのただ一点にあると僕は考えています。たとえ国民の多くがマスコミに流されやすく、自分で思考する能力が奪われていて、心の中で軽蔑したくなったとしても、それでも彼ら彼女らの幸福を願い、不幸を軽減する道を実現せんとする、そうした想いを失ってしまった瞬間、その人は政治家であることをやめなければならないと思うのです。

先の政治哲学者、ハンナ・アーレントの議論を僕は「現前の政治哲学」と呼んでいますが、その本質的に差別主義的な企て(僕は彼女は本質的にレイシストだと確信しています)とは全く逆方向をむいた、「他者性の政治哲学」を紡ぎ出さなければならない。こうした試みは、デリダおよびレヴィナスの議論と精神を継承することです。私が上に述べたこと、そこにすでにデリダの重奏低音を聴き取った人も多いことでしょう。ですが、デリダの脱構築やレヴィナスの他者論は、一般になぜかある種の相対主義・虚無主義や、ユートピア的な議論であると理解されています。でもそうじゃない。彼らの語る政治や社会とは、まさに私たちがいまこうして紡ぎ出している政治や社会のことを語っているのだということ、そしてこれこそが、実践的な戦略的思考と戦術的行動、そして政治的決断を呼び覚ますのだということ、そのことを私は、自分のいまここの責任において、自らの言葉であなたに伝えたいと思っているのです。

 

続きは稿を改めます。

2010年6月2日水曜日

内田樹「鳩山首相の辞任について」

またブログにアクセスできないようなので、マイミク内田樹さんのmixi日記から転載します。必読です。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1503638862&owner_id=932249

 

鳩山首相が辞任した。
テレビニュースで辞意表明会見があったらしいが、他出していて見逃したので、正午少し前に朝日新聞からの電話取材でニュースを知らされた。
コメントを求められたので、次のようなことを答えた。
民主党政権は8ヶ月のあいだに、自民党政権下では前景化しなかった日本の「エスタブリッシュメント」を露呈させた。
結果的にはそれに潰されたわけだが、そのような強固な「変化を嫌う抵抗勢力」が存在していることを明らかにしたことが鳩山政権の最大の功績だろう。
エスタブリッシュメントとは「米軍・霞ヶ関・マスメディア」である。
米軍は東アジアの現状維持を望み、霞ヶ関は国内諸制度の現状維持を望み、マスメディアは世論の形成プロセスの現状維持を望んでいる。
誰も変化を求めていない。
鳩山=小沢ラインというのは、政治スタイルはまったく違うが、短期的な政治目標として「東アジアにおけるアメリカのプレザンスの減殺と国防における日本のフリーハンドの確保:霞ヶ関支配の抑制:政治プロセスを語るときに『これまでマスメディアの人々が操ってきたのとは違う言語』の必要性」を認識しているという点で、共通するものがあった。
言葉を換えて言えば、米軍の統制下から逃れ出て、自主的に防衛構想を起案する「自由」、官僚の既得権に配慮せずに政策を実施する「自由」、マスメディアの定型句とは違う語法で政治を語る「自由」を求めていた。
その要求は21世紀の日本国民が抱いて当然のものだと私は思うが、残念ながら、アメリカも霞ヶ関もマスメディアも、国民がそのような「自由」を享受することを好まなかった。
彼ら「抵抗勢力」の共通点は、日本がほんとうの意味での主権国家ではないことを日本人に「知らせない」ことから受益していることである。
鳩山首相はそのような「自由」を日本人に贈ることができると思っていた。しかし、「抵抗勢力」のあまりの強大さに、とりわけアメリカの世界戦略の中に日本が逃げ道のないかたちでビルトインされていることに深い無力感を覚えたのではないかと思う。
政治史が教えるように、アメリカの政略に抵抗する政治家は日本では長期政権を保つことができない。
日中共同声明によってアメリカの「頭越し」に東アジア外交構想を展開した田中角栄に対するアメリカの徹底的な攻撃はまだ私たちの記憶に新しい。
中曽根康弘・小泉純一郎という際立って「親米的」な政治家が例外的な長期政権を保ったことと対比的である。
実際には、中曽根・小泉はいずれも気質的には「反米愛国」的な人物であるが、それだけに「アメリカは侮れない」ということについてはリアリストだった。彼らの「アメリカを出し抜く」ためには「アメリカに取り入る」必要があるというシニスムは(残念ながら)鳩山首相には無縁のものだった。
アメリカに対するイノセントな信頼が逆に鳩山首相に対するアメリカ側の評価を下げたというのは皮肉である。
朝日新聞のコメント依頼に対しては「マスメディアの責任」を強く指摘したが、(当然ながら)紙面ではずいぶんトーンダウンしているはずであるので、ここに書きとめておくのである。

2010年5月31日月曜日

普天間問題―まだ何も終わってなどいない。その1

普天間問題に関して、マスコミが基本的な事実関係を報道しないことが主要な原因であろうと思われるのですが、一般に誤解が蔓延しており、また今回の2+2日米合意声明についても、その背景や意味について理解が浸透していないため、ここに書き記しておこうと思います。

一番重要なことは、まだ辺野古に決まったわけではないということです。実際、辺野古の海を埋め立てる現行案の実現はほぼ不可能であり、辺野古に作られない可能性が日米合意にはあらかじめ組み込まれています。また、訓練の県外や「グアムなど」への国外への移転の検討も含まれています。鳩山首相が先日の記者会見でいったとおり、沖縄負担軽減の第一歩、いや半歩が始まったばかりなのです。それにも関わらず、「これで終わってしまった」という国内世論が作られてしまうことは非常に危険です。

まず、この問題のもっとも重要なポイントである、だけど国民には周知されていない、いわゆるグアム協定について説明をしておく必要があります。(Twitter経由で来た人は、聞き飽きた話だと思います。ごめんなさい(笑))。この協定の前段階としては、米軍再編によるグアムの軍事ハブ化にもとづく、2006年5月の「再編実施のための日米のロードマップ」があります。この日米ロードマップを結んだのは、小泉首相および、麻生太郎外相、額賀福志郎防衛庁長官で、そこでは米軍自身都合による再編であるにも関わらず、、「これらの案の実施における施設整備に要する建設費その他の費用は、明示されない限り日本国政府が負担するものである。」という内容が、国会の審議も十分になされず、また国民にも知らされないまま、策定されているのです。

それをうけて、2009年2月に中曽根弘文外相とヒラリー・クリントン国務長官がグアム協定、正式名称「第三海兵機動展開部隊の要員及びその家族の沖縄からグアムへの移転の実施に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」を締結したのです。グアム協定では、普天間飛行場の代替施設が辺野古に設置されることを条件として、嘉手納以南の8000人の海兵隊が、2014年までにグアムに移ることが規定されています。そして、残りの海兵隊のために、辺野古に大規模な普天間代替施設を建設し、かつ米軍のグアム移転予算の大部分である60億ドルを負担するという、控えめに言って不公平な合意内容だったわけです。

そして、さらに信じがたいことなのですが、普天間問題について論じる際、このグアム協定にかんして、主要マスコミはほとんど全く報道してこなかったのです。実際、Googleニュースなどで「グアム 協定」などについて検索すると上がってくるのは、ほとんど5月28日の日米合意時のみです。

なぜこの事実を報道してこないことが問題なのか。それは、グアム協定を前提とすると、

①普天間問題の意味が違ってくる、
さらに
②今回の日米合意の意味が、まったく異なった文脈で見えてくる、

からです。

①沖縄に在留している海兵隊の人数は正確な数が発表されていないのですが、12000人程度と推定されています。そしてもう一度強調すれば、そのうちの8000人がグアムに移転することが決定されているのです。要は、普天間問題のエッセンスは、「沖縄から海兵隊が大部分出て行った後の、普天間基地の代替機能をどうするのか」、ということなのです。この代替機能というのが何なのか、実のところ正確にはわかっていません。ただし、グアム協定を念頭におくなら、単に普天間基地をそっくり辺野古に移す、という話ではありえないことは容易に理解出来ます。

ともあれ、鳩山首相は野党時代、この代替施設は県外に移設可能であると考えていた。たとえば、鳩山首相が沖縄に言ったときの談話で抑止力について述べたときに、「海兵隊が抑止力であるということすらわかっていなかった」という批判がありましたが、この発言はいくつもの事実誤認に基づくものです。第一に、ほとんどの軍事専門家の見解が一致するが、攻撃・占領用部隊である海兵隊は決して抑止力ではない。第二に、海兵隊の大部分はグアムに移転することが決定されていることを、彼らは知らないか無視している。第三に、移転するのはあくまで第三海兵隊であって、抑止力の中核である嘉手納の空軍基地は、さしあたりそのまま残される。第四に、ある意味でもっとも重要な事ですが、鳩山首相はそもそも「海兵隊は抑止力である」とは言っていないということです。

 

わたくしは海兵隊というものの存在が、はたして直接的な抑止力にどこまでなっているのかということに関して、その当時(注:野党時代)、海兵隊という存在そのものをとりあげれば、必ずしも抑止力として沖縄に存在しなければならない理由にはならないと思っていました。ただ、このことを学ぶれば学ぶにつけて、やはり、パッケージとして、すなわち海兵隊のみならず、沖縄に存在している米軍の存在全体の中での海兵隊の役割というものを考えたときに、それがすべて連携していると、その中での抑止力というものが維持できるんだ、という思いに至ったところでございます。それを浅かったと言われればその通りかもしれませんが、海兵隊に対する、存在のトータルしての連携の中での重要性というものを考えたときに、すべてを外に、県外あるいは国外に見いだすという結論には、私の心の中に、ならなかったと、いうことであります。

私は、仮にも研究者のはしくれ、特に厳密なテクスト解釈のエキスパートとして言わせてもらうと、鳩山首相が「言葉が軽い」というのは明らかに間違いです。彼は、理系の研究者らしく、非常に言葉を厳密に、選択して使用しており、それを丁寧に読めば真意がわかるようになっているのです。それを読みとれないで、適当な、かつ誤った解釈をしたあげくに、「迷走している」とマスコミは言っているだけで、迷走しているのはマスコミの方ではないでしょうか。

ともあれ、以上の鳩山首相の発言を「海兵隊が抑止力だと思わなかった」と要約するのは、明らかに間違いです。あえて要約すれば、「海兵隊の機能の一部に、他の在沖部隊と連携している部分があり、それだけは県外に出すことは、抑止力の観点からできない。」と言っているのです。そして、この機能とはいかなるモノか、野党時代は知らず(実際ほとんどの軍事専門家の「海兵隊はそれ自体では抑止力ではない」という認識と一致しています)、かつこの発言以降も全く触れていないことから、この「機能」が首相でしか知りえない機密事項であることさえ読み取れるのです。実際、ここで鳩山首相が言ったことは、軍事機密であったことを、後で本人が言っています。

この発言を捉えて、鳩山は「海兵隊が抑止力であることすら知らなかったのか」と批判する自民党側の人も、また「そもそも海兵隊は抑止力ではない」と批判する海外移設主張派も、読み間違えています。では、他の部隊と連携している、県外に移設できない機能とはなんなのか?ここから先は憶測でしかありませんが、内田樹氏は、私が先日緊急避難用に転載したブログ「「それ」の抑止力」で、核兵器ではないかという推測をを仄めかしています。また、元菅直人の政策秘書でありフリージャーナリストの松田光世さんはTwitterで、県外移設が不可能な普天間基地の隠された機能とは、嘉手納空軍基地のバックアップ機能―嘉手納を飛び立った米軍機が、嘉手納が攻撃されても 無事に戻れるようにする―というものであると明言しています(普天間日米交渉の行方・5月末の期限の意味~~@matsudadoraemonつぶやき編集)。

県外移設できない機能がなんなのか、日米政府ともに全く公表していない以上、それがどのような機能で、どの規模の施設が必要なのか、はっきりとはわかりません。それが単なるバックアップ用の滑走路なのか、それとも現行案のような、新たな大規模な基地なのか、それもわからない。ともあれ、もう一つ鳩山首相の発言から読み取れることは、どうしても県外に移設できない隠された機能以外の普天間基地機能の大部分は、県外・国外に移設可能であるということです。これは鳩山首相が実は一貫して言っていることなのですが、全く理解されていないことです。グアム協定について全く報道しないマスコミの論調からすれば、日本国民の大部分が、政府案を普天間基地をそのまま辺野古にもってくるという話であると信じ込んでいても仕方がないでしょう。

もう一つ重要なことは、現在日米間で協議されているのが、普天間移設にとどまらず、沖縄県の基地全体としての軽減負担であるということです。たとえば、鳩山首相が5/27に全国知事会議に依頼した訓練の県外負担は、そもそも沖縄県全体が負担している訓練の分散です。それは、今回の日米合意を読めば理解出来ます(日米合意については、次期のアップで論述する予定です)。にも関わらず、マスコミは鳩山首相が「普天間移設問題にかんして」の「訓練移転」を求めているといった誤った報道を行うことで、普天間移設に関する合意期限の五月末のぎりぎりになってまで迷走している鳩山首相というミスリーディングな印象を作り出すばかりか、鳩山政権による沖縄県民負担の軽減という真摯な取り組みをおそらくは意図的に無視し、踏みつぶそうとしているのです。

とても大切なことなので、もう一度言います。マスコミは、広い意味での普天間問題について、事実に基づく正確な報道を行っていません。先日、NHKのこどもニュースで、普天間問題の解説をしていましたが、見ていて腹が立ちました。グアム協定の話を完全にすっ飛ばして、普天間基地を辺野古に移すという話をして、「約束を守れない鳩山首相は困ったものだ」という論調で終わっていました。大人が騙されるのは、本人の情報収集能力および知的能力の問題もあり、ある意味で自業自得です。だけど、文字を読むのが困難なため、自分で情報を調べることができず、その情報を自分で判断することができない子供に、嘘を教えるのはやめてほしい。悪質きわまりない。

詳述は面倒なのでしませんが、今思いつく限りで報道されていない話を列挙します。

  • 「辺野古で決まっていたのに、鳩山が潰した」という言いぐさも、まったく間違っています。そもそも普天間返還と辺野古基地の新設が決定した1996年のSACO合意では、2001年から2003年には、普天間基地は返還されていなければならなかったのです。それが現在に至るまで杭一本打てなかったのは、激しい反対運動があったからです。要は、自民党政権下において、普天間問題はすでに膠着状態だったのです。
  • そもそも辺野古埋め立てをする現行案は、アメリカの環境団体が提出した「ジュゴン訴訟」で米政府が、中間報告で敗訴しているため、ほぼ不可能な状況となっています。(米国でのジュゴン裁判、保護団体勝訴・問われる日本のアセスメント)。だけど、今回の普天間問題に関して、ジュゴン訴訟について論じた大マスコミは、私が知る限り皆無です。
  • 海外の有力な移設先として、テニアン議会が満場一致で、日米両政府に基地の誘致を求めているのですが、それを報道したのは朝日新聞だけで、それもTwitter上で指摘を受けてからの話です。しかも「日米両政府は非現実的という見解」という内容のタイトルをつけての上でした。

ともあれ、以上の事実関係を前提にしないと、今回の日米合意の意味を理解することもできませんし、その件に関する鳩山政権の評価もできないはずです。なのに、マスコミは基本的な事実を報道せずに、すべてを鳩山首相の責任としてなすりつける論調を作り上げた上で、鳩山政権についての世論調査ばかり繰り返しています。

つい先ほど、愛媛新聞社が「抑止力のわな」という記事で、「きのうの日米共同宣言で、急に実働部隊のグアム移転をにおわせたのも不自然だ」と書いていて、仰天しました。急にって、おい(笑)。僕はこれまで、マスコミが事実関係を知った上で、それを意図的に隠蔽しているのだとばかり思ってたし、上でもそのように書いてきました。だけど、この論説を見る限り、どうも記者はグアム協定について、本当に当日までなにも知らなかったらしい。グアム協定という一番根幹の事実について知らないのなら、マスコミをやめた方がいい。

②の日米合意については、次回書きます。

2010年5月28日金曜日

転載 内田樹の研究室 「それ」の抑止力

 

内田樹氏のブログ(http://blog.tatsuru.com/)で、重要なアップデートがある度に、なぜかサーバーがダウンするため、拡散フリーという内田氏の方針に基づいて、以下、とりあえず無断で転載いたします。

http://blog.tatsuru.com/2010/05/28_1008.php

 

共同通信の取材。参院選についての見通しを訊かれる。
月曜にAERAのみなさんともその話をしたばかりである。
民主党は議席を減らすが、「大敗」というほどではないだろう。自民党はさらに議席を減らし、谷垣総裁の責任問題に発展し、党の分裂が進む。公明党も政権与党という条件がなくなったので議席減。「みんなの党」に多少議席をふやす可能性があるが、投票率が低いだろうから、「風が吹く」というような現象には達しないだろう。
というあまりぱっとしない見通しを語る。
見通しがぱっとしない理由は民主党政権が「期待したほどではなかった」という思いはあるが、「じゃあ、何を『期待』していたんだ?」と訊き返されると、有権者も政治家もだれもが明確な中長期的構想を語れないからである。
民主党だって「やろう」としたのだが、うまくできなかったのである。
それを民主党の政治家たちがとりわけ無能であったと見るか、「やれる」と思って取り組んだ政策的課題が「意外に根が深い」ことに気づいたと見るかによって、現政権に対する評価は変わるだろう。
私は現代日本の政治家のレベルが政党ごとに大きく差があるとは思わない。
どこの政党も悪いけど「似たようなもの」である。
だから、民主党政権が「期待はずれ」だったのは、政権交代前は「できる」と思っていた政策的課題が「できない」ものであったことに気づいた、という可能性の方を採るのである。
普天間基地問題は「大山鳴動して鼠一匹」的なアンチクライマックスな終わり方をしそうである。
「基地の県外移転」の主張が一気にトーンダウンしたのは鳩山首相が沖縄を訪れたあとの5月4日に記者団に対して述べた次の言葉がきっかけである。
「昨年の衆院選当時は、海兵隊が抑止力として沖縄に存在しなければならないとは思っていなかった。学べば学ぶほど(海兵隊の各部隊が)連携し抑止力を維持していることが分かった」
この言葉に対してマスメディアは一斉に罵倒を浴びせた。
いまさら抑止力の意味がわかったなんでバカじゃないか、と。
私はこのコメントを「不思議」だと思った。
アメリカ軍の抑止力や東アジア戦略のだいたいの枠組みについては、官邸にいたって専門家からいくらでもレクチャーが受けられたはずである。
しかし、そのときのレクチャーでは「分からなかった」ことがあった、と首相は言ったのである。
「抑止力の実態」について、首相は沖縄で米軍当局者から直に聞かされたのである。
聞かされて「あ、『抑止力』って、そのことなのね。あ、それは政権取る前は知るはずがないわ・・・」とびっくりしたのである。
だとすれば、そのときの「抑止力」という語が意味するのは、論理的には一つしかない。
ヘリコプターとか揚陸艇とかいうのは抑止力の「本体」ではない。
考えれば当たり前のことである。
日本が想像できるとりあえず唯一の「現実的な」軍事的危機は「北朝鮮からのミサイル攻撃」であるが、それに対してヘリコプター基地なんかあっても何の防ぎにもならない。
「朝鮮半島有事」のときにそんなにヘリコプターが必要なら、何よりもまず韓国内の米軍基地に重点配備すべきであろうが、韓国内の基地は2008年から3分の1に縮小されている。
休戦状態であり、いまだに「宣戦布告」というような言葉を外交官が口走る一触即発の国境線近くの基地を「畳む」ことは可能だが、沖縄の基地は「畳めない」としたら、理由は一つしかない。
韓国内の基地には「置けないもの」が沖縄には「置ける」ということである。
「それ」が抑止力の本体であり、「それ」が沖縄にあるということを日本政府もアメリカ政府も公式には認めることができないものが沖縄にはあるということである。
そのことを野党政治家は知らされていない。
政府の一部と外務省の一部と自衛隊の一部だけがそのことを知っている。
「それ」についての「密約」が存在するということはもう私たちはみんな知っている。
私たちが知らされていないのは「密約」の範囲がどこまで及ぶかということだけである。
だから論理的思考ができる人間なら、沖縄の海兵隊基地に「それ」が常備されている蓋然性は、そうでない場合よりもはるに高いという推論ができるはずである。
「それ」があるせいで北朝鮮は日本へのミサイル攻撃を自制している。中国は近海での軍事行動を「今程度」に抑制している。
そういう説明を聞かされた総理大臣は「『それ』が沖縄になかった場合の東アジアの軍事的バランスについての確度の高いシミュレーション」を提示する以外に米軍に「出て行ってくれ」ということができないということに気がついた。
それで「出て行ってくれないか」という言葉を呑み込んでしまったのだ。
「それ」が沖縄に常備されているということは自民党政権時代からの密約の結果なのだから、カミングアウトしても民主党政権の瑕疵になるまい、と首相も一瞬思ったかもしれない。
でも、それをカミングアウトすることは、日本がアメリカの軍事的属国であり、主権国家の体をなしていないということを改めて国際社会に向けて宣言することに他ならない。
できることなら、体面だけでも守りたい。
何よりも、「それ」は公式には「ない」ことになっている。
いずれ水面下の交渉で、「それ」が沖縄から撤去された場合でも、「もともとないはずのもの」がなくなっただけだから、誰にも報告する必要がない。
誰にも報告する必要がないのだから、「それ」が沖縄に「まだある」のか「もうない」のかは北朝鮮にも中国にもロシアにもわからない。
「パノプティコン効果」というものがありうる。
あるのかないのかわからないものについては、それが危険なものであれば、とりあえず「ある」ことにして対応する、という人間心理のことである。
「それ」について黙っていれば、「日本国内には強大な抑止力があるかもしれない(ないかもしれないけど)」という疑心暗鬼の状態に東アジア諸国を置くことができる。
うまくすれば、「それ」がないまま何十年か、「ある」ふりをして「はったり」をかますことができる。
私がいま中国人民解放軍の情報担当将校であったら、このときの鳩山総理の「抑止力」発言をそのような文脈で解釈することが「できる」というレポートを書いて上司に提出するであろう。
上司はそのレポートを見て、渋い顔をしてこう言うであろう。
「ま、そうだな。ふつうはそう考えるな。ほんとうは『それ』はないのかも知れない。ずっとなかったのかも知れない。ないのに、『それ』があるように見せるというフェイクを演じている可能性は排除できない。日本人にはそんな演技力はないけれど、アメリカ人にはある。まあ、万が一ということがあるから、いちおう『それがある』ということにして対日戦略プラン立てておくか・・・それに『それ』がある可能性が高いというふうに上には言っておいた方が人民解放軍の予算枠が大きくとれるし」
と中国人は考えているわけですね、おそらくは・・・というような説明を鳩山首相は沖縄で米軍のインテリジェンス担当者からレクチャーされたのではないか、と私は想像している。
なるほど抑止力というのはそういう心理の綾も「込み」で展開しているのか・・・と知って首相は腕を組んで考え込んでしまった。
その果てに出た言葉が「学べば学ぶほど連携し抑止力を維持していることが分かった」というものである。
新聞は(海兵隊の各部隊が)という言葉を勝手に書き加えたが、たぶん「連携」しているのは、そんなかたちのあるものではない。
抑止力というのは一種の心理ゲームである。
「それ」があるかないか判然としないというときに、抑止力はいちばん効果的に働くのであると米軍のインテリジェンス担当者に聞かされて、首相は「不勉強でした・・・」と頭を下げたのである。
じゃないかと思う。
その場にいたわけじゃないから想像だけど。
残念ながら、私の推理を裏書きしてくれる権威筋の人はたぶん日米中通じてひとりもいないはずである。そうしたくても、できないし。
でも、私と同じように推論して、その上で何も言わずに黙っている人は日本国内に30万人くらいはいるはずである。

2010年5月12日水曜日

革命家マルクスのフォイエルバッハ最終テーゼ

この論文は、『情況 2009年6月号』に掲載されました。論文の内容は、フォイエルバッハは西洋哲学の原-脱構築を開始したおそらく最初の人間であり、その哲学的他者論を批判的に継承することによって、マルクスは革命家になり、その独自の社会理論を展開した―そのように考えることで、初めて彼の「フォイエルバッハにかんするテーゼ」は充分に理解出来る、というものです。ただし、内容的に極度に圧縮されているため、読みづらいかと思います。そのうち再編集してアップできればと考えています。

 

革命家マルクスのフォイエルバッハ最終テーゼ

―脱構築と共産主義―

 

革命家マルクス

 

哲学者たちは世界をただ様々に解釈してきただけである。肝心なのはそれを変えることである。

1845年、フォイエルバッハにかんする第十一テーゼにおいて、カール・マルクスは、哲学の元を去り、革命家として生きることを宣言した。じじつ、マルクスは終生、革命家として生を全うした。

だが、マルクス研究者の多くは、マルクスを「ただ様々に」「解釈者」として解釈しただけであった。すなわち、彼はフォイエルバッハなどの既存の哲学を否定したが、それは新たな哲学あるいは科学の創設であって、それは最高到達地点たる『資本論』の体系に結晶化されたのだ、と。その反面、「テーゼ」における革命的精神は、『資本論』の背後において抑圧されてきたのである。

たしかに、『資本論』をコンスタティブに読むならば、そこに革命家としての精神の痕跡を見いだすのは困難である。たとえば序文に目を通してみよう。

資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかに描いてはいない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範躊の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考えるほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである。[1]

ここに表明された理論家としての態度が、「テーゼ」の革命的精神と一致している、と考えることは困難であろう。しかし『資本論』を一歩離れ、その当時のマルクスの書簡を読むならば、彼にとってこの理論的テクストの出版もまた、革命的実践を意図したものであったことが、目に浮かぶように見えてくる。たとえば、ある書簡で、彼は次のようにしたためている。

第一巻は第一冊『資本の生産過程』を含んでいる。それはたしかにブルジョア(土地所有者を含めて)の頭にぶつけられた最も怖ろしいつぶてです。今や諸君が印刷物で、すなわち、諸君の自由になる新聞雑誌で、近く刊行されることに注意を促してくれることが重要だ。[2]

もう一つだけ、印象的なエピソードを紹介しよう。『資本論』の出版直後、エンゲルスはマルクス宛の書簡で、「事態をはやく運ばせるために」、エンゲルス自身が「ブルジョア的立場から本の攻撃」を行うことを提案している。マルクス自身は、それに対して次のように返答している。

本をブルジョア的立場から攻撃するという君の計画は、最良の戦闘手段だ。だが僕は──そいつができしだい──マイスネルよりもジーベルかリッテルスハウスの手でやらせた方がよいと思う。最良の本屋にでもあまり奥まで手の内を見せてはならないのだ。[3]

この書簡の往復は、マルクスがテクスト出版において、革命のために戦略的に振る舞っていたことを示している。だが実際には、革命戦術は隠微に行わなければならないというマルクスの意志により、エンゲルス自身による『資本論』批判が実行されることはなかった。

歴史に「もしも」はない、と人は言う。しかし、私は想像することを禁じえない。もしも、エンゲルスによる『資本論』批判が後生の私たちの手元に残り、その背景となる書簡が発見されなかったとしたら、マルクス解釈史にどれほどの混乱を巻き起こしたことだろうか、と。

だがそうだとすると、現在私たちの手元に届いている『資本論』にさえ、同じ事が言える可能性はないだろうか。マルクスが革命的・実践的に振る舞っていたことが疑いないとするならば、その者の書くテクストのコンスタティブな非革命性は、―まさにその革命性ゆえに―周到にテクストの表面から革命的精神の痕跡を抹消しようとした結果と考えなければ、一貫して理解しえないのではないか。いずれにせよ、当時の検閲制度においては、これが唯一の実践可能な選択肢であったことは確かなのだ。

ともあれ、こうした実践的文脈を、研究者たちは、まったく考慮せずに済ませてきた。だが、テクストは、行ったことを言葉通りに受け止めるのではなく、実践的行為として読まれなければならない―そう論じたのは、『ドイツ・イデオロギー』のマルクスではなかっただろうか[4]

私たちは、マルクスをマルクス的に読み直さなければならない。ただしそれは、「フォイエルバッハにかんするテーゼ」における、革命家としてのマルクスである。

だが「テーゼ」はマルクス自身のための、短い覚え書きにしかすぎない。その内的な構造を余すことなく理解するために、まず私たちは、マルクスに絶大な影響を与えたフォイエルバッハの『将来の哲学の根本命題』を、もう一度読みなおす必要がある。

 

フォイエルバッハによる西洋哲学の脱構築

 

フォイエルバッハは、『将来の哲学の根本概念』において西欧哲学総体を転倒する必然性を説いた。以下、完結に要約する。

西洋における神学から思弁哲学への発展は、論理必然的なものである。なぜなら神の無限性を一個の客体として表象する、という矛盾を神学は侵しているからである。有神論は、神を―すなわち外部を必要としない絶対的知性を―人格的存在者として、すなわち感性的存在として想像している。ところが、それ自身においてある対象とわれわれにとっての現象の区別立てが、感性を基礎づけている。なぜなら、感性とは、絶対的な外部への依存だからである。しかるに、神においては、人間にとっての対象と、神それ自身との根源的な区別が存在しないため、神は感性的な存在者ではありえない。神は、人間の―感性を抹消した―思惟の産物であり、そこに現れているのは、人間の思惟の本質なのである。それゆえ、思惟の対象と思惟を同一視するヘーゲルの観念論的汎神論は、神学の―そして西洋哲学の―徹底化であり、完成形態なのである[5]

ヘーゲル哲学において、抽象的な理念はそれ自体では、単に思惟の境位にあるにすぎず、現実化されることによって真実となる。だがそれは、単なる思想は、感性が付け加えられることによって、初めて真理となることを意味している。だが、そもそも「思想に対して自分を実現し自分を感性化するという要求が行われるのは、もっぱら、無意識的に思想に対して実在性および感性が思想からは独立に真理として前提されているからである」。それにもかかわらず、「意識的には思想の真理性が出発点にされるから、感性の真理性が後から初めて言表され、感性が単に理念の属性にされるにすぎないのである」[6]。この感性の矛盾―すなわち本来は理念が無意識的に依存している感性を、後から意識的に従属させるという矛盾―が解消されるためには、感性それ自体に第一次的な意義が認められなければならない。

だが、理念への従属から解放された感性は、従来の感性概念とは根本的に異なる。思弁哲学における感性の対象としての存在概念は、あらかじめ単なる対象として思惟へと適合させられている。だが、それ自体としての、現実的な感性の対象は、「語られることができないもの」[7]であり、それはもう一つの主観性としての他者である。。

従来の哲学では、客体はすべて思惟へと従属させられており、それゆえ他者を顧慮し、承認することができなかった。新しい哲学は、感性の真理性、そして感性によって開かれる外部性としての他者を承認するところからはじまるのである。

以上が、『将来の哲学の根本命題』の、再構成された要約である。フォイエルバッハにとって、この論文は、あくまで将来の哲学のための批判的基礎をつくるためのものであった。そしてまた、これら根本命題の「諸帰結は起こらないことがないであろう」[8]、と序文で予言している。

ここで私が思い至るのは、ジャック・デリダの仕事である。なぜなら、初期デリダの代表作のいくつか―『声と現象』や『グラマトロジーについて』―における、西洋形而上学における音声=言語中心主義脱構築は、次のように一般化されうるからである。すなわち、西洋形而上学の二項対立―パロール/エクリチュールなど―は、前者に後者が従属する位階秩序として提示されている。そして、西洋形而上学の企ては、すべてを前者へと回収しつくすことである。だが、前者は、後者を抑圧しながらも、後者によってある根源的な仕方で汚染されている。それをデリダは論理的に示すことによって、自己への絶対的現前という西洋形而上学の企てが不可能であることを示す。それと同時に、前者への抑圧から解放された後者の概念―たとえば一般化されたエクリチュール概念―によって、現前の彼方に関する思惟を開始するのである。

このように脱構築を一般化するならば、フォイエルバッハのヘーゲル批判が、単純な意味でのヘーゲルの転倒などではなく、文字通りの意味において西洋形而上学の「脱構築」であったことは理解できよう。フォイエルバッハは、西洋哲学の完成形態たるヘーゲル哲学の中枢部分において、無意識的に外部性を要請しながら抑圧していることを明らかにした。そうすることで彼は、絶対的な真理に到達しようとする西洋哲学の企ての不可能性と、他者の哲学の必然性を、内在的に示したのである。

フォイエルバッハからマルクスへ―知のリミットと主体の転回―

アルチュセールは、次のように主張した。マルクスは西洋形而上学の写鏡的認識論を打破し、認識の対象と実在の対象とを厳密に区別することによって、絶大な科学革命を成し遂げたのだと[9]。だが、この「絶大な科学革命」は、実際にはフォイエルバッハによって開始されたことを、私たちは見てきた。だとすれば、通説とは異なるが、マルクスはこのフォイエルバッハ哲学の本質的な部分を継承したのではないだろうか。

その点を確かめるため、アルチュセールが最重要視した『経済学批判序説』の当該箇所から、私たちはマルクスを読み進めて行くことにしよう。

意識にとっては──そして哲学的意識は、概念する思惟が現実の人間であり、したがって概念された世界がそのものとしてはじめて現実の世界である、というように規定されている──、諸範疇の運動が現実の生産行為──遺憾ながらそれは外部から刺激だけは受ける──として現れ、この生産行為の結果が世界なのである。そしてこのことは──しかしこれもまた同義反復ではあるが──、思惟総体としての具体的な総体が、一つの思惟具体物として、実に思惟の、概念行為の産物であるかぎりでは、正しいのである。[10]

この文章は、古典経済学およびヘーゲル哲学に言及する文脈で提示されている。この文章をごく表面的に読めば、「諸範疇の運動が現実の生産行為であり世界である、というのは正しい」と、ヘーゲル的に解釈されかねない[11]

だが私たちは、「意識にとっては・・・として現れ」「であるかぎりでは正しい」などという言葉で、マルクスが幾重にも予防線を張り巡らしていることを見逃すわけにはいかない。そして何よりも、意識の外部に言及していることを、見落とすわけにはいかない。マルクスがここで論じたいことはむしろ、哲学的意識がその外部を知らない限りにおいて、世界は概念行為の産物として現象せざるをえない、という、独我論的な同語反復である。このように言うときマルクスが、ヘーゲル哲学に対するフォイエルバッハの脱構築を全面的に継承していることは明らかである。

そしてこの外部性の思惟こそが、ヘーゲル(および古典経済学)とマルクスを分かつ分水嶺なのである。事実、マルクスはその直後に次のように述べている。

頭脳のなかで思惟全体としてあらわれる全体は、思惟する頭脳の産物であり、この頭脳は自分にだけ可能な仕方で世界をわがものにするが、その仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的=精神的にわがものとするのとは異なった一つの仕方である。実在的な主体は、依然として頭脳の外部でその独立性をたもって存続する。すなわち、頭脳がただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎりでは。だから、理論的方法にあってもまた主体が、社会が、前提としてつねに表象に思いうかべられていなければならない。[12]

この極端に凝縮された文章のすべてを論じることはできない。ここでは、実在的な主体(他者および社会)が、頭脳の外部に存在すること、そして、その外部性をたえず表象し、自覚しなければならないことが読み取れれば十分だろう。

しかしそうだとすると、マルクスとフォイエルバッハは、哲学的にはまったく同じ立場を採用していた、ということになりはしないだろうか。

だが、上の引用を子細に検討するならば、マルクスが、このテクストに、奇妙な、しかし決定的な開口部をしるしづけていることに気づかざるをえない。

「頭脳がただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎりでは」。このセンテンスは、「理論的にふるまわない場合」における何かをほのめかしている。そしてこの「序説」には、その指し示す先は存在しない。マルクスは、この宛先のない奇妙な言及において、いったい何を示唆しようとしていたのだろうか。

おそらく私たちは、ここにつづけて、フォイエルバッハに関する第十一テーゼを読むべきなのだ。つまり、「実在的な主体は、依然として頭脳の外部でその独立性をたもって存続する。すなわち、頭脳がただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎりでは。哲学者たちは世界をただ様々に解釈してきただけである。肝心なのはそれを変えることである。」と。

じっさい私たちは、このような接続を通してはじめて、『ドイツ・イデオロギー』におけるフォイエルバッハに対する評価と批判を、あますことなく理解できるようになる。

人間どうしの関係にかんするフォイエルバッハの推論のことごとくは結局、人間たちはお互いを必要とするし、またいつも必要としてきたことの証明に尽きる。彼はこの事実についての意識を確立しようとし、したがって爾余の理論家たちのように、或る現存の事実にかんする或る正しい意識を生みだそうとするだけなのであるが、ほんとうの共産主義者にとっては、この現状なるものをくつがえすことが肝腎の仕事なのである。それにしてもわれわれはフォイエルバッハがまさにこの事実の意識をつくりだそうと努めることによって、理論家たるものが理論家、哲学者であることをやめることなしにおよそ行きうるぎりぎりのところまで行っていることを全幅的に認める。[13]

すなわち、人間たちが互いに必要としてきたという事実を、マルクスはフォイエルバッハとともに全面的に認める。その意識は、すでに見たように、まさにフォイエルバッハによる西洋哲学の脱構築を通じて可能となる。だが、フォイエルバッハは、外部性・他者性に関する事実に対する正しい認識をつくり出そうとしただけであった、とマルクスは批判しているのだ。

言い換えれば、他者たちは、認識の対象ではなく、変革の、行為の対象である。だがそれは、具体的にはいかなることがらを意味しているのだろうか。

たとえば、写真家である私が、その惨状をフィルムに記録しようと、戦場に出かけたことを想像してもらいたい。そこで私が出会ったのは、たまたま、地雷で片足を吹き飛ばされ、苦痛に泣き叫ぶ少年であった。私は、彼の苦痛をより深く理解し、あるいはその苦痛を共有しようという気高い感情にとらわれ、夢中でシャッターを切り続ける。だがレンズ越しに、少年の哀願に満ちたまなざしを捉えたとき、私はふと我にかえるのだ。いまこのファインダーに映っている「戦場の悲惨を体現している少年」のその彼方に、そこに実際に苦しんでいる誰かがいるということを。そのことに気がついたとき、私は傍観者である自らの罪の重さにも覚醒する。私が彼らをただ理解しようとしたり、共感しようとしたりすること、それ自体が、実際に助けを求めつづけている少年を見捨て、自らの責任で死へと追いやる行為なのである、という事実に。私はカメラを打ち棄て、少年の元に駆けつける。そして私は、二度とカメラを手に取ることはできないだろう。

フォイエルバッハは初めて他者を哲学的に見いだした。だが、それを再び「観照の対象」へとおとしめてしまったのだ。だからマルクスは第2テーゼで次のように述べたのだ。

人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題はなんら観想の問題などではなくて、一つの実践的な問題である。

マルクスは、いわば写真家として振る舞うフォイエルバッハに、カメラを捨てて彼らを助けることを求めた。それが、他者を初めて見いだしたものの責務なのだと。フォイエルバッハに対する批判のマルクスの激越な調子は、おそらくはここに由来する[14]

 

マルクスの社会システム論

 

マルクスは、フォイエルバッハとともに、ヘーゲル哲学の―それゆえ西欧哲学総体の―原-脱構築をくぐりぬけ、哲学そのもののリミットに到達した。両者の差異は、外部性としての他者を観照の対象とするか、あるいは行為の対象とするかの、実践的な態度の違いである、と要約できる。だがそうだとすれば、両者は理論的には同一ということにならないだろうか。

たしかに、マルクスはフォイエルバッハの「新しい哲学」における批判精神の神髄を継承している。そればかりでなく、また、その哲学の本質的な内容を否定したことはなかった[15]。だがフォイエルバッハは観照者として、哲学の―そして認識の―境界線の内側から、その外部を眺めただけであった。だが、マルクスは、哲学者であることを辞め、境界線の外側に足を踏み出したのである[16]

そのとき、初めて、前人未踏かつ広大無辺の平野が、カール・マルクスの目の前に開けたのだ。そのいわば旅行記が、彼の社会理論である。私たちは、「テーゼ」のマルクスが残した足跡をたどり、再びこの荒野に歩みいることにしよう。

第一テーゼの冒頭に、彼は次のように書いている。

これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人問的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである。

このテーゼの意味は、もはや私たちには理解できよう。マルクスが言う感性的活動 die sinnliche Tätigkeitとは、みずからの他者への行為の地平である。それは、マルクス自身による献身への、後戻りできないメタモルフォーゼを通過して、初めて見いだされたのだ。だから彼は、第一テーゼの最後に、フォイエルバッハは「『革命的な』活動、『実践的に批判的な』活動の意義を理解しない」、と批判しているのである。これ以上は紙幅を割けないが、この感性的活動という論点から、環境と教育の変化に関する唯物論的教説を批判する第三テーゼ、あるいは第五テーゼなども容易に把握できる。

だが、第六テーゼ「人間性は・・・その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体である」、という有名なテーゼは、どのように理解すればよいだろうか。マルクスにおける社会的諸関係という概念、そしてさらに社会概念の意味するところを十全に汲み取るために、私たちは『ドイツ・イデオロギー』に立ち戻らなければならない。

フォイエルバッハはことに自然科学の見方をうんぬんし、物理学者と化学者の目にしかあらわにならない秘密に言及するが、しかし産業と交易がなかったとすれば、自然科学はどこに存在するであろうか? この「純粋な」自然科学ですらじつにその目的をも材料をも交易と産業をつうじてこそ、人間の感性的活動をつうじてこそ、はじめて受け取るのである。それほどにこの活動、この間断なくおこなわれつづけている感性的な労働と創造、この生産は現にいま存在するごとき全感性的世界の基礎なのであるから、もしもかりにそれがたった一年間でも中断されたとすれば、フォイエルバッハはたんに自然界のうちにとてつもない変化が生じるのを見るのみならず、また人間世界の全体と彼自身のものを見る力、いやそれどころか彼自身の存在すらもがたちどころに消えてなくなるのに気づくにちがいない。[17]

この箇所は、ごく表層的に読めば、個人が経済によって構成されている、と読めてしまう。だが、このように読むならば、マルクスの社会理論の本質を完全に取り逃がしてしまうことになる。

私たちがまず確認するべきこと、それはある個人の感性的世界が―また人間の存在自体が―全面的に外部に依存している、というフォイエルバッハの感性論全体がまず端的に前提とされている、ということである。その上で、感性が依存している外部性のさらにその手前に、他者による感性的活動・創造行為が存在し、感性的世界が他者によって全面的に与えられつづけている、ということにフォイエルバッハは気づいていない、とマルクスは批判しているのだ。別の箇所で「たとい感性が聖ブルーノにおけるように一本の杖に、最小限度に還元されている場合でも、その感性はこの杖の生産の活動を前提する」[18]と論じているときも、まさに彼は同じ事を言わんとしている。

このときマルクスは、ここで単なる実在論の立場に立って、周囲の実在物が他の人間によって作られたものである、というありきたりの常識―むろんそれ自体は間違っていないが―を述べているわけではない。そうではなく、感性的存在者はそれを支える主観性と不可分であり、それがある根源的に内的な仕方において、他の主観性による感性的活動によって絶え間なく与えられつづけている、ということを論じているのだ。それが、マルクスのいう「関係」概念の意味であり、それゆえ関係は必然的に個人間の生産関係なのである。[19]

このような地平に立つとき、世界はまったく違った様相をもって立ち現れることになる。すなわち、あらゆる感性的存在者すべて、たとえば私が読んでいる本やコップといったものは他者の感性的活動の―それゆえ他者の生命の―痕跡であり、それらの総体が私の感性的世界を―そしてそれらを現象させる私の主観性を―構成しつづけている。そして、私もまた、その生活過程において、気づくことなく見知らぬ誰かの感性的世界を与え、誰かの生の一部に組み込まれている。

諸個人から諸個人へと流れていくこの生産関係の、壮大かつ複雑な動的ネットワークにおいて、感性的に享受し活動する諸個人が一つの結節点を構成している。人間性とは「社会的諸関係の総体である」という第六テーゼは、そのような意味において理解されなければならないのだ。そうでなければ―すなわち「共同主観的被既定性」などと解釈すれば―、『要綱』における下記の論述は、決して理解できない。

もしわれわれがブルジョア社会を全体として観察するならば、社会的生産過程の最後の結果として常に社会それ自身、すなわちその社会的諸関連における人間それ自身が現れる。生産物等のような、固定した形態をもついっさいのものは、この運動の契機として、消過的な契機としてだけ現れる。直接的生産過程それ自身がここでは契機としてだけ現れる。過程の諸条件と諸対象化は、それ自体一様に過程の諸契機であって、この過程の諸主体としては諸個人だけが、ただし相互に関係しあう諸個人だけが現れ、そして彼らはこうした諸関係を再生産し、また新たに生産する。諸個人自身の不断の運動過程、この過程のなかで彼らは自己を更新するとともに、また彼らの創造する富の世界を更新する。[20]

この引用は、『要綱』においてマルクスがその社会理論の全体構想を記した、特権的な箇所である。ここでは、人間の社会的諸関連が、諸個人間の生産過程として論じられている。そしてその関連のなかで諸個人は、自らを生産するとともに、この社会関係をも再生産する。マルクスは、テーゼで見いだした感性的活動概念を基礎に、自らを再生産するオートポイエティックなシステムとして、社会システムを構想したのである[21]

 

そして共産主義革命へ

 

以上みてきたマルクスの「関係」概念、そして「社会」概念は、フォイエルバッハの他者論と矛盾するものではなく、むしろその極限的な急進化であったと言える。事実、フォイエルバッハにおいて関係とは、感性を通じた外部への依存性であり、その論点はマルクスにも全面的に継承されている。だが、マルクスによる大幅な拡張を通じて、私たちの感性的世界、私たちの他者への行為、そして思考や認識などがすべて、この社会的生産関係の網の目の中に位置づけられることになる。ここから次の第四テーゼが導き出されることになる。

フォイエルバッハは宗教的自己疎外、すなわち宗教的世界と世俗的世界への世界の二重化、の事実から出発する。彼の仕事は宗教的世界をそれの世俗的基礎へ解消するところにある。しかし世俗的基礎がそれ自身から離脱して、雲のなかに一つの自立的な王国を自身のためにしつらえるということは、ただこの世俗的基礎の自己滅裂状態と自己矛盾からのみ明らかにされるべきである。

すなわち、ヘーゲル哲学の―また西洋哲学の総体の―幻想を論理的に暴露した後、そのような幻想もまた、社会的諸関係の中の一つの言語行為として、理解されなければならないのだ。第七テーゼは、ここでいう「社会」という概念を掘り下げなければ、単なる経済決定論ないし社会構築主義として誤解を招きかねないが、そのような脱構築的な言語行為論の文脈で理解されなければならない。

それゆえフォイエルバッハは、「宗教的心情」そのものが一つの社会的産物であること、そして彼が分析する抽象的個人が或る特定の社会形態に属することを見ない。

ここで再び私が念頭においているのは、デリダのオースティン論「署名 出来事 コンテクスト」である。

諸々の形而上学的概念の二項対立(たとえば、パロール/ エクリチュール、現前/ 不在、等々)とは、決して差し向かいにある二つの項のことではなく、一つのヒエラルキーであり、一つの従属関係の秩序である。脱構築は、中立化に自らを限定したり、中立化へすぐさま移行したりすることはできない。脱構築は、二重の身ぶり、二重の学、二重のエクリチュールによって、古典的二項対立の転倒と体系の一般的転位との両方を実践しなければならないのである。[22]

この論述は意図せずして、フォイエルバッハとマルクスの関係を見事にあらわしている。フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学における理念/感性の二項対立を転倒し、外部への―他者への―開けを見いだした。マルクスは、その他者との関係性を徹底化して、ヘーゲル哲学が―あるいは諸々のドイツ・イデオロギーが―その中で位置づけを持つ、一つの社会理論へと転位させたのだ。じっさい、デリダ自身、『マルクスの亡霊たち』において、「脱構築はマルクス主義の急進化の試み」であると述べている。[23]

だが、マルクスであれデリダであれ、この現前の-彼方の-社会についての知は、一つの理論にとどまりつづけることができない。ふたたび『序説』にたちもどるならば、哲学の幻想を生産しつづけている社会のあり方に関して思惟することは、「依然として頭脳の外部でその独立性をたもって存続」させたままにしておくことだ、という事実への覚醒をたえず私たちに促すからである。だから、第四テーゼの後半は次のように続くのだ。

それゆえにこの世俗的基礎そのものがそれ自体において矛盾したものとして理解されるとともにまたそれ自体において実践的に変革されねばならない。したがってたとえば地上の家族が聖なる家族の秘密としてあばかれた以上は、こんどは前者そのものが理論的かつ実践的になくされねばならない。

他者への献身―あるいは主体の裏返し―を通じて開示された、現前-の-彼方の社会にかんする前代未聞の知は、再び、主体を献身の次元へと送り返す。だがそのとき、献身は、この壮大な社会的知を媒介として、共産主義革命へと昇華されるのである。

共産主義はわれわれにとっては、つくりだされるべきなんらかの状態、現実が則るべき〔であるような〕なんらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶところのものは現在の状態を廃止する現実的運動のことである。[24]

そして、共産主義はこの感性的活動の次元に対する自覚的な実践となるだろう。

共産主義が従来のあらゆる運動と異なるところは、それが従来のあらゆる生産関係と交通関係の基礎をくつがえし、あらゆる自生的前提をはじめて意識的に従来の人間たちの産物として取り扱い、それらの自生性を剥いで、一体となった諸個人の力に屈せしめるところにある。[25][26]

以後、マルクスの行為は、すべてこの革命的実践の一環として理解されなければならない。

私たちがなさねばならぬ仕事は幾多ある。たとえば私たちは、マルクスのテクストを―少なくとも出版を意図した数少ないテクストに関しては―、マルクス的に―すなわちパフォーマティブなテクスト生産行為として―、立体的に解釈しなおさなければならない[27]。また、膨大なマルクス解釈史にもかかわらず、マルクスの社会理論自体、未完であり、その理論を継承的に発展させていく作業も必要となる。

だが、おそらく最も肝心なのは、フォイエルバッハにかんする最終テーゼの革命的精神を継承することである。それが、マルクスが私たちに遺した、最大の責務である。


[1] マルクス・sエンゲルス『マルクス・エンゲルス全集 第23巻 第一分冊』、大内兵衛・細川嘉六監訳、大月書店、1965年、10-11。

[2]マルクス・エンゲルス 『資本論に関する手紙』岡崎次郎訳 法政大学出版局、1967年、147

[3] ibid.175

[4] マルクス・エンゲルス『マルクス・エンゲルス全集 第三巻』、大内兵衛・細川嘉六監訳、大月書店、1965年、45-46。

[5] 有神論から汎神論へと至るこの過程は、おそらく大澤真幸のいう集権身体から抽象身体への移行とほぼ同一の機制であるかもしれない。大澤真幸『身体の比較社会学 I』、勁草書房、1990年。

[6] フォイエルバッハ『フォイエルバッハ全集 第九巻』、船山信一訳、福村出版、1974年、129-130。

[7] ibid. 120

[8] ibid. 66

[9] アルチュセール『資本論を読む』、権寧・神戸仁彦訳、合同出版、1974年。

[10] マルクス『経済学批判要綱』、大月書店、1959年、23。

[11]実際、廣松渉は、この文章の一部を恣意的に引用し―彼は「外部からの刺激だけは受ける」という箇所などを省略した―、ヘーゲル弁証法とマルクス弁証法は構造的に同じである、という驚くべき結論を導き出している。廣松渉『マルクス主義の成立過程』、至誠堂、1968年。

[12] op.cit. 23.

[13] マルクス・エンゲルス『マルクス・エンゲルス全集 第三巻』、大内兵衛・細川嘉六監訳、大月書店、1965年、38。

[14] ちなみに、知の極限において、他者に対して主体が反転するこのあり方は、おおむね後期レヴィナスの「主体の裏返しl’envers du Sujet」という概念に極めて近い。レヴィナス『存在の彼方へ』、合田正人訳、1999年。

[15] たしかに、マルクスは、テーゼにおいてフォイエルバッハにおける「類」概念を拒否している。だが、その「類」概念はフォイエルバッハの他者論とは本質的に相容れず、それゆえ後に彼自身全面的に放棄するに至っている。

[16] ちなみに、フォイエルバッハ自身も、1844年の自らへの覚え書きの中で、次のように述べている。「哲学を人類の事象にすることーそのことが私の最初の努力であった。しかしいったんこの道を切り開く者は、最後には必然的に、人間を哲学の事象にし、且つ哲学そのものを廃棄するところまで来る。なぜかといえば哲学が人類の事象になるのはもっぱら、哲学がまさに哲学であることをやめることによってであるからである。」(op.cit. 272)むろん、この論述にかんして、マルクスは当時知る由もなかったが、この一致は、マルクスとフォイエルバッハの連続性を強固に示している。

[17] マルクス・エンゲルス『マルクス・エンゲルス全集 第23巻 第一分冊』、大内兵衛・細川嘉六監訳、大月書店、1965年、40。

[18] ibid. 24.

[19] 『経済学批判序説』においてマルクスは、生産が、諸個人間の内的な消過的な関係であることを、実在論との相違に即して、極めて詳細に論じている。(マルクス『経済学批判要綱』、大月書店、1959年、13-16。

[20] マルクス『経済学批判要綱』、大月書店、1959年、661-662。

[21] この場合のオートポイエシス論は、ルーマンのものではなく、マトゥラーナのものである。マルクスの議論が、事実上社会のオートポイエシス論を志向していたことの証明については、岡田直樹「カール・マルクスのシステム論」(『社会・経済システム 第二十八号』、129-141)を参照。

[22] デリダ『有限責任会社』、高橋哲哉他訳、法政大学出版局、2002年、51。

[23] Derrida ’The Specters of Marx’, Routledge, 1994, 92.

[24] マルクス・エンゲルス『マルクス・エンゲルス全集 第三巻』、大内兵衛・細川嘉六監訳、大月書店、1965年、31-32。

[25] ibid.66.

[26] おそらく、ここにデリダとマルクスの微細ではあるが、決定的な差異が存在する。デリダは、生産関係の「意識的統制」という物言いの粗雑さに、他者の支配という「たがの外れた欲望」を見いだし、疑義を唱えるに違いない。実際、『マルクスの亡霊たち』の論点は、マルクスが憑依学hauntologyと呼ばれる外部性の思惟を創設したが、それを再び存在論ontology化してしまったのではないか、というものであった。この点に関して、私はデリダにほぼ全面的に同意する。それゆえにこそ、マルクスをデリダに―そしてレヴィナスに―接続する必要性があるのだ。

[27] たとえば、エンゲルスは、資本論出版時のマルクスあての書簡で、「価値形態論」は「たしかにブルジョア的全汚物のそれ自体」であると―マルクスも端的に同意するかのように―述べている。(ibid. 154 )。またマルクスは1868年のエンゲルス宛の書簡において、『資本論』第二巻においては、価値規定がブルジョア社会では「直接的」には妥当しないと書くつもりだ、と書いている(ibid. 188)。これらの書簡は、これまでのマルクス研究史において全く無視されてきたが、真剣に受け止められるならば、従来の『資本論』解釈を完全に転覆させうる潜在力を持っている可能性がある。