2012年10月9日火曜日

人生における選択の方法論 その1

人生の選択、その一般的な方法論

ありふれた言い方ですが、人生とは選択の連続です。どの就職先に就職すべきか、交際を申し込まれたけどどうしようか、学校はどこにするのか。そんないわば人生の岐路だけではなく、日常生活とは小さな小さな選択の集合です。あなたも毎日、色々悩んでいることだと思います。どの店でお昼ご飯を食べるか、喉が渇いたけど自販機でジュースを買おうかしら、気に入ったコートを見つけたけど高いな、上司に飲みに誘われたけどほんとは帰ってサッカー見たいな、運動したいけどめんどくさいなどうしようか―などなど。そうやってちょっと悩んだり、とりあえず流されてみたり、そして後悔したり。

悩むのも重要なことだし、悩んだり考えたりすることを楽しめるということは、大切な能力です。ただし、同じ悩むにしても、思いあぐねて時間だけがひたすら過ぎていくのか、それとも筋道を立てて思考して決定ができるのかは、大きな違いだと思いませんか?結局のところ、もう一方の選択肢をたどりようがない以上、どんな選択をするにしても、その判断が正しかったのかはわかりません。ですが、ぐじぐじ考えて、決定したあとも後悔するというのは、時間と感情の無駄なのは確かです。

私は、ここで「選択のための一つの方法論」を提案してみたいと思います。これは、人生に関する事実から積み重ねた、誰もが体感できる、ごくごく当たり前のことです。そして、みんな自覚していなくても、多かれ少なかれ人はある程度実践しているものなのでしょう。そういう意味で、決して目新しさはないです。だけど、人が本当に迷ってるときは、その基本的なことが見失われてしまう、そういうものだと思います。迷い込んだ時は、まず基本に立ち返ることで、思考が整理されていきます。それを一緒に確認していきましょう。

ライフコンサルティングの原則

私が提案する方法論が役に立つのは、自分にとってというよりは、むしろ人生の選択について、誰かに相談を受けたときかもしれません。人は、知らず知らずのうちに、自分の価値観を相手に押しつけたり、相手の状況を知ろうとせずに、本人にとっては無理がある選択をさせようとしたりしてしまいます。

たとえば、なかなか就職しようとしない子供に対して、「なんで働かないの」と怒る親のことを考えてみてください。でも、働かないには、その人なりの理由があるんです。もしかしたら、本人に自覚がなくても、何らかの潜在的な病気を抱えていて、体調的に無理があるのかもしれません。あるいは、最近の若年層の労働環境の悪化を踏まえて、「そんなところで奴隷になるのは嫌だ」と思ってるのかもしれません。そういう身体的・環境的な状況を無視して、無理に働かせると、最終的には身体も精神も壊れてしまう可能性が高くなります。その闘病生活は、最終的に、より高くつくことになるでしょう。そんな悲劇が、この国には、おそらく数十万件以上、おそらくは数百万件起っています。

誰かにとって有意義なアドバイスをしようとするなら、「相手が生きている」という事実を踏まえる必要があります。その事実の中には、「相手が少しずつしか変わっていかない」ということと、「最終的に判断するのは相手である」ということが含まれています。謙虚な気持ちで、相手を知り、その意志に寄り添っていくことが、実践的にはもっとも大切なことです。そのために、これから提示する方法論は役に立つでしょう。

戦略的生活方法論の概略

人生選択の方法論を具体的に説明する前に、概略を出しておきます。

  1. 死を見つめることで、自分にとっての「人生の意味」(理念)を明らかにする。
  2. 理念を具体的な目標に落とし込む。
  3. 現在の自分の状況を、生において不可欠な7つのパラメータに分け、点数化する。
    パラメータ=身体的健康、精神的健康、生活環境、経済、人間関係、知性、時間
  4. 各パラメータの相関関係を分析し、ボトルネックになっている箇所を見極める。
  5. 2の具体的な目標を実現するために必要な各パラメータを、できるかぎり明確にする。点数と、さらに具体的な内容まで明示する。
  6. 各選択肢について、それが各パラメータをそれぞれ変えるのか、さらに次のステップでそのパラメータが他のパラメータにどういう影響を与えるのか、想像する。それが、2に繋がる道ならその選択肢は適切であると判断できる。

「人生の意味」について

いきなり本題に入りますが、「人生の意味」とはなんでしょうか?お金を蓄えること、地位を確立すること、家族の愛情にくるまれて生活すること・・・何が人生の意味なのかは、結局のところ人それぞれ異なるでしょう。もう一度言いますが、大切なことは、自分の一番大切な価値観と、他の人の価値観が違うということを、自覚することです。自分の人生はそれぞれにとって唯一絶対のものなので、どの価値観が一般的により優れているかを考えることには、まったく意味がありません。自分の価値観を尊重しようとしない人のアドバイスを無理に聞くことはないし、相手の価値観を尊重しないで、求められてもいないのにアドバイスをすれば、その人の信頼を決定的に失うことになります。

でも、多くの人間は普段生活に追われていて、何が一番大切なのか、それを自覚する機会はあまりないものでしょう。では、自分にとって「人生の意味」とは何か、どうすれば自覚できるでしょうか。それは、おそらく「死を先取する」ことによってです。

ありがちなストーリーですが、ある青年が画家に本当になりたくて美大を目指していたのに、将来を心配した親に無理に諦めさせられ、家業の開業医を継がされたとします。確かに、親は満足し、お金持ちになって安定した人生を歩みます。でも、最後の最後、死ぬ瞬間になって、彼はたった一回きりのその人生を、自分の思い通りに生きられなくて、満足できるのでしょうか?もし満足できるんだったら、その選択は、結果として正解だったと言えるでしょう。逆に、どんなに地位や金銭に恵まれていても、なにも創り出さない生を空虚だと感じて死ぬなら、その人の人生は全体として、やはり失敗だったのだと言えるかもしれません。

結局、人生に意味があるかどうかは、その人が死ぬときに後悔しなかったかどうか、その一点に集約されます。あなたは、いつか必ず死にます。例外はありません。その逃れようのない事実を直視したとき、「こういう生を全うして死ねたら本望だな」と心の底から思えるもの、それが、あなたにとっての「人生の意味」なのです。

人が「自分の人生の意味」と思うものは、まったく人それぞれでしょう。でも、大きく類別すると、三つに分けられるはずです。

  1. 内在的意味
    人生とは生まれてから死ぬまでのすべての経験の集合体ですが、その経験の内容に意味を求めることです。たとえば、経済的に充実している、美味しいものを沢山食べる、多くの信頼できる友人に恵まれる。などなど。
  2. 外在的意味
    外在的意味とは、人生に対する他人からの評価のことです。どのような地位を築くこと、一大財産を築いて大富豪として名声を博すこと、大学教授になること、ノーベル賞を取ること、などなど。
  3. 超越的意味
    自分の死を超えて、他者や社会に対して、どのように貢献できるか。たとえば、第三世界の飢餓をなくしたい、愛する人を幸せにしたい、共産主義革命を起こしたい、などなど。

人の願いは一つではないですし、たぶん、その三つの要素が混じってるのが普通です。そして、いろんな思いが沢山沸いてくると思います。でも、死の瞬間を思い浮かべて、自分にとって何が満たされた生なのか、それを想像してみてください。それを習慣化しておくと、いつかきっと「自分にとって一番大切なことは何か」が見つかると思います。それは、おそらく強烈なパッションのようなもので、それがあなたの生の一番根底にある感情です。企業で言えば、それは「理念」に相当します。そのとき、あなたは本当の、誰も知らなかった自分に出会い、他人には歩むことができない、自分だけの人生を歩み始めるのです。

でも、生きる意味なんてそんな簡単に見つからない?そうでしょうね。確かに、それを見つけること自体、とても大変な作業で、それができれば人生の3分の1はすでに成功したようなものですから。では、混迷の中に迷い込み、自分の生の根本を織りなす「意味」がどうしても見あたらないとき、どうすればよいのでしょうか?これから私が提示する方法論は全く役に立たないのでしょうか?いえいえ、そんなことはありません。その場合のことも、また後ほどご説明します。

理念を具体的目標へ落とし込む

さて、あなたにとって人生の意味が明確になったとしましょう。でも、それはあくまで一つの情熱や感情であって、具体的に到達すべき目標ではありません。そこで、その感情を思い、具体的にイメージしてみましょう。できれば、紙やノートに、文字や絵などで具体的に書いてみると良いかもしれません。そうすることで、それまで漠然としていたイメージが、一つのヴィジョンとして血肉になります。人生に一つの芯が通り始める瞬間です。

ところで、どうやって具体的な目標を思いえがけばよいのか、それはもう、人それぞれです。内在的意味だと、比較的わかりやすいでしょう。たとえば、豊かな生活を送りたいということが理念なら、「豊かになって何がしたいのか」を想像すれば済みます。たとえば、ブレゲの時計を身につけたい、バーがある家に住みたい、年に数回は世界中を回って美味しいものを食べ歩きたい、など次々とイメージがふくらんでくるでしょう。もし膨らんでこなければ、自分が興味がありそうな分野の情報に接していけば、欲しいものが見つかるでしょう。

外在的意味に関しては、他人の評価に関してはどうしようもない部分もあります。自分に対する他人の評価を、自分がコントロールすることはできませんから。ならば、その目標を達成するために、自分ができる事、自分にはどうしようもないこと、それを明らかにしましょう。どんなに素晴らしい小説を書いても、ノーベル文学賞を取れるかどうかは、審査員次第です。ならば、ノーベル賞を取ってもおかしくないぐらいの水準の小説を書くこと、そこに集中する必要があります。

超越的意味、これが実は一番困難であり、それだけに知恵の絞りどころです。誰か具体的な人を幸せにしたい、というなら、まだ割となすべきことは見えやすいかもしれません。ですが、大志を抱いた人は、ここで大きな壁にぶつかることになります。第三世界の女性差別をなくしたい、そう心から願う人は、具体的に何をすれば良いのでしょうか。資産がたくさんあって、それを寄付をする、それで十分だと思えるなら、それでも良いかもしれません。ですが、より大きく何かを変えようと願うならば、「現実の壁」にぶち当たることになるでしょう。

もちろん、私は「現実の壁」があるから、人生における超越的意味など捨ててしまう方が良い、とお説教したいわけではありません。ただ、その壁を乗り越えるための具体的で現実的な戦略を思い描くためには、それだけの知性が必要になる。それだけです。さらに、それを現実的に実現するためには、エネルギーとリソースが必要になるでしょう。そこも含めて、どれぐらいあらかじめ算定できるのか、その能力が求められるわけです。

以上、一番基本になるお話しを整理してみました。当たり前すぎて、平凡だったかもしれませんし、やや精神論に偏った印象を受けたかもしれません。次回、生の7つの次元とその相関関係についてご説明する予定です。

2012年2月15日水曜日

政治と聴くこと

 

先日ある会合で、政治家は自分の主張をするスタイルが良いのか、それとも有権者の声を聞くスタイルが良いのか、という話しが出たので、それについて僕の考えを述べる機会がありました。今回のブログでは、そのときに話したことを少し補って書いてみたいと思います。

政治家を志望する人は圧倒的に少ないので、あまり役に立たない話しだと思われるかもしれません。たぶん、これは単に政治家とはどういうことか、という話しだけではなくて、コンサルティングやカウンセリングにも当てはまるところがあるのではないかと思います。

電話サポートのお仕事

僕は、現在のところコンピュータのユーザーサポートの仕事をしていますが、その前は、某大手家電量販店の顧客向けに、コンピュータの電話サポートの仕事をしていました。電話サポートという仕事は、ほんとうに大変で、技術力と柔軟な応用力はもちろん必須なのですが、それ以上にコミュニケーションスキルを駆使したお客様の感情的ケアが、その仕事の大部分だと言っても過言ではなかったように思います。

さて、この仕事を始めるときに、よく会社から言われたことが、「お客様が言うことを真に受けるな」ということでした。この言い方には語弊がありますが、真実の一片を突いていることは確かです。というのは、お客様が間違ったことを言っているとこっちが思うと、オペレーターがお客様にたいして反論する態度になってしまう。それだと、お客様を怒らせてしまう。オペレーターは裁判官ではありません。お客様がいうことそのものを、まず全面的に受け入れる必要があります。

2012年1月14日土曜日

「震災復興講演会 ~がれき受け入れの意義と問題点」のお知らせ

イベントの告知がまわってきたので、お知らせしておきます。

震災復興講演会~がれき受け入れの意義と問題点

1月21日13時30分から16時まで、兵庫県三田市フラワータウン市民センターホールで講演会会が開催されます。フラワータウン市民センターは、神戸電鉄フラワータウン駅を降りてすぐです。http://www.city.sanda.lg.jp/community/flowertown.html

 

講師

元京都大学理学部教授(理論物 物理学)山田耕作先生
元京都薬科大学教授(分子細胞 生物学) 大和田幸嗣先生

内容


1.放射性物質で汚染されたがれき処理の意義と問題点
「第二のフクシマ」を起こさない ために
がれき付着の放射性物質が受け 入れ地区に与えるだろう汚染
(希釈拡散の問題として)につ いて
2 .チェルノブイリ原発事故25年の 健康被害の実態から学ぶ
がれきに付着してくる放射性物 質が地域住民へ与える健康被害 の可能性(放射線被害の危険性 )について
3.質疑応答

主催は「未来工房」です。

ご興味あるかた、ふるってのご参加をよろしくお願いします。

2012年1月4日水曜日

内面の豊かさと経済システム ①               ―「経済と生の対立」について―

 

日本の経済成長が20年以上停滞している状況の中で、内面的・精神的な豊かさを人生の基本的な価値観とする人が、とりわけ若い世代に少しずつ潜在的に増えてきている。僕にはそんな印象があります。これは、LOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)として名指されるクラスタであると言ってもいいと思います(名指される当人たちの中には、商業的に利用されてきているこのネーミングを拒絶する人も多いでしょうが、他に適切な言葉が思いつかないので、さしあたりこの名前で呼ぶことにします)。

そして、こうした傾向は今後、より一層強くなってきて、社会の表層にあらわれてくるだろうと予想されます。というのは、福島第一原発の事故によって、従来の権力構造とそれを支えてきた価値観が大きく揺るがされる中で、必然的に多くの人が生命や生活というものを見つめなおしつつあるからです。

こうしたムーブメントは個人的には喜ぶべきことだと考えています。それはおそらく、僕自身が、大きくわけるとそのクラスタに属しているからでしょう。僕自身は美味しいもの、美しい音楽を至上の喜びと感じる官能主義者ですし、生活全体を芸術化したいという欲望もあります(実現には程遠いですが。てかまず部屋を掃除しろよw)。

ただ率直に言うと、そうした方向性を向いている人たちが口にしているイデオロギーに対して、僕は少し違和感と、もっといえば危惧を感じています。彼らは、「経済よりも生活・命が大切だ」「経済成長という神話を捨てて、内面を充実させるべきだ」と主張することが多いからです。すなわち、経済と内面の豊かさとを対立項ととらえており、経済を否定することによって精神を充実させる―とまでは言わないけれど、精神的豊かさを追求することは経済システムの廃棄・否定に繋がる、と考えている節があるからです。そうした考えの背後には、経済というものに対する無理解と、もっと言えば侮蔑があると思います。