15年ほどに書いた、レヴィナス哲学に関する未発表の論文を公開します。自分が書いた 文章の中で、個人的に最も気に入っているものです。
「存在するとは別の仕方で」とはいかなることか
後期レヴィナスの主著『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』1は、謎めいた書き出しではじまる。
超越に何らかの意味があるとしても、その意味するところは、存在するという出来事──存在性──存在することが、存在とは他なるものへと過ぎ超すという事態をおいてほかにありえない2。
だが、直後にレヴィナスも問うように、そもそも「存在とは他なるものとは一体いかなるものなのか」。そして他なるものへの超越──「存在するとは別の仕方で」とは、いかなる事態を指すのだろうか。「存在とは他なるもの」、それは<他者>である。超越あるいは「存在するとは別の仕方で」は、<他者>に対する<私>の関係性であると考えて差し支えない。だが、そのように言い換えたところで、謎が解消されるわけではない。そして、次の警句は、問いの深刻さをいっそう大きくする。
別の仕方で存在することではなく、存在するとは別の仕方で。それは存在しないことでもない。存在と存在しないことが相互に証明し合ってつむぎ出す思弁的弁証法でさえ、あくまで存在を規定するものにとどまる。存在を排斥しようとつとめる否定性も、存在を排斥したとたん、存在のうちに没してしまう3。
「存在するとは別の仕方で」は、決して道徳や当為ではない。もしそれが何か我々が「なすべき」ことを語っているのならば、それは「別の仕方で存在すること」になるだろう。それだけではなく、「存在するとは別の仕方で」は、如何なる意味においても、存在論でも否定神学でもありえない。
だが、もしレヴィナスが主張するとおりならば、我々には彼の言葉を有意味なものとして理解することは、不可能なのではなかろうか。彼が言うように、「存在を排斥しようと努める否定性も、存在を排斥したとたん、存在のうちに没してしまう」のだ。事実、現存するほとんどの「レヴィナス解釈」は、レヴィナスが通常の意味における「倫理」を説いているか、あるいは新たな「存在論」を提示していると見なしている。
一例だけ挙げよう。熊野純彦の『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』は、レヴィナスの「存在論的解釈」の典型であると考えることができるだろう。レヴィナスにおいて、<他者>との関係性は、「隔時性」diachronie という非常に特異な時間概念として、示されている。隔時性とは、「一度も現前したことがない」過去4 である。単に記憶が不完全だからではなく、「記憶によっても歴史によっても回収することの出来ない」5 絶対的外部性なのである。レヴィナスは語る。
存在内での連携でも、超越論的統覚の統一性のうちにこの連携が反映されることでもなく、 ──近さは、<自我>から<他人>へと、二つの時間に引き裂かれている。だからこそ近さは超越なのだ。近さは時間化する。ただし、隔時的時間によって時間化する。意識は想起によって回収される時間のうちに宿り、かかる時間のうちで維持される。また、体験されるものとして存在および存在者が現出するのも、想起によって回収される時間においてなのだが、近さは、このような時間の外で、その彼方で、それを超えて、隔時的時間によって時間化するのだ。6
だが、現在と共役不可能なこの時間、言い換えれば存在論へと回収される事なき絶対的な過去とはいかなることか?これが、レヴィナスの他者論の中核である。そして、熊野の論考も、主にこの不可解な「隔時性」概念をめぐって考察されている。
呼びかけを受容する私の現在は、他者による呼びかけそのものの現在に常に・すでに遅れている。他者にとっての(呼びかけの)現在は、私にとっては取り戻しようのない過去になっている。他者の呼びかけは、だから私の現在に回収できない、否応のない「外傷」であり、他者の現在そのものがその「痕跡」なのだ。7
だが、熊野の上のような論述は、我々の困難な問いに対する回答であるというよりは、端的に問題の抹消ではなかろうか。熊野は、現在から撤退するところの相対的な過去として、「隔時性」を了解しているように見受けられるのだ。彼はその副題が示すとおり、<他者>を現前から「移ろいゆくもの」として、一貫して解釈している。もちろん、レヴィナスにおいても、現象におけるミクロなずれ・遅延は、極めて重要であることは否めない。しかしながら、我々は、レヴィナスが次のように語っていることを見逃す訳にはいかないのである。
どんな現在よりも古き過去、一度たりとも現在と化したことのない過去は、その起源なき古さ故に、隠蔽と開示の「ゲームに加わった」ことがなく、また、未だ記述されざる今ひとつの意味を保持し続けている。8
レヴィナスにおいては、現象に刻み込まれた外傷ないし「時間的位相差」と、そのさらなる彼方としての「隔時性」とは、──「近さ」として接続されながらも──そのステータスを厳格に異にしている。だが熊野は、そのテクストの総体にわたって、この二つの次元の絶対的差異に無頓着であると言えるだろう。ここでは<他者>の他者性が、現在=現前の痕跡ないし撤退として、現前と相関的に了解されているのである。だがこのとき、「存在論の彼方」を語ろうとしたレヴィナスの自身の声は、抹消されてしまっているのではないか。
解釈におけるこのような「裏切り」、それはレヴィナスを解釈する者のテクスト読解能力が不足しているからではない。レヴィナスによれば、「存在することの彼方」の存在論的解釈への頽落は、むしろ原理的な必然である。
存在とは他なるものが言表されるや否や、存在は、存在とは他なるものを出口なしの宿命のうちに幽閉してしまう。9
それは、何かを理解するということがそれについて語りうるということと同値である限りにおいて、まさに言語それ自体の限界なのである。したがって、「存在するとは別の仕方で」は存在論的にしか「理解」する余地がないのだ。
私たちの諸言語は、いかなる王権よりも強く、また、廃位することもない存在の王権を単に反映しているだけではない。そうではなく、私たちの諸言語は存在のこの王位そのものなのだ。しかるに、背面世界というまやかしの超越以外のどんな超越も無意味なものと化してしまう。言い換えるなら、<天の国>も実は地上の国の上空を回っているにすぎないのだ。10
では、「存在するとは別の仕方で」は、言葉に尽きせぬ神秘、言語の端的な外部なのだとレヴィナスは主張しているのか。そうではない。レヴィナスにおいては、<語ること>は、それが<他者>へと語るということである限りにおいて、まさに「存在するとは別の仕方で」なのだ。
起源に先立つ言語としての語ることは、語ることと語られたことが相関関係であるような言語に一変する。…存在と存在者の区別さえ、語ることのこの両義性に支えられている。語ることと語られたことの相関関係、つまり、語られたこと、言語学的体系、存在論への語ることの従属は、現出という事態が要求する代償なのである。…主題化されるや否や、存在する とは別の仕方で、存在するとは他なるものは自分を裏切り、存在の存在することとして主題のうちに現出する。…あたかも、存在とは他なるものが、存在という出来事であるかのようだ。11
<語ること>は、原理的に<語りえぬもの>である。より正確に記すならば、<語る>という<語りえぬもの>を、それでもレヴィナスは<語ろ>うとするが、その言葉は、読む者において必然的に、「語りうる」と「語りえない」という存在論的差異の「戯れ」として回収されてしまうのだ。先の熊野の解釈における躓きは、その転落を地で歩んだ結果であろう。だが、レヴィナスが<語ろ>うとしていたもの、それはまさに、「存在と無を隔てる差異のそのまた彼方なる差異」12 なのである。だが、その「差異」とは一体いかなることなのであろうか?
けれども、このような顕出が意味の一様態であるとするなら、<語られたこと>から<語ること>へと遡行しなければなるまい。<語られたこと>および<語られなかったこと>が<語ること>全体を汲み尽くすことはない。<語ること>はあくまで<語られたこと>の手前にとどまる。あるいはまた、<語ること>は<語られたこと>の彼方に赴くのだ。13
我々は、レヴィナスと共に、「<語られたこと>から<語ること>へと遡行」する必要があろう。それはまた、「存在するとは別の仕方で」とはいかなることかという、冒頭の不可能な問いを、解決することでもある。その問いは、<語ること>がなぜ<語りえぬ>のか、そして<語ること>がなぜ<語られたこと>の手前にとどまり/彼方へと赴くのか、と言い換えることができるのである。
<語りえぬもの>をめぐ って──レヴィナスからウィトゲンシュタインへ──
しかし、存在論へと回収されざる<語りえぬもの>とは<何>かという問いは、根源的に無意味ではなかろうか。<語りえぬもの>は、否定的であれ肯定的であれ、現前と相関的に解釈されざるをえないからだ。あるいは、その通りであろう。だが、われわれがここで立ち止まるならば、少なくともレヴィナスの哲学が<何>を語ろうとしたのかが、全く理解不可能になる。特に、レヴィナスの哲学が新たな存在論ないし否定神学の変形なのであれば、ハイデガーを含めた西洋形而上学=存在論に対する、<倫理>──これは道徳でも「倫理学」でもない──の先行性を、レヴィナスが一貫して唱え続けたことは、ただの狂気じみた矛盾であるということになってしまう。彼の哲学は、まさに、その「存在することの彼方」という不可能な問いをめぐってくりひろげられ、またそれを語ることをその使命としているのである。
<語ること>の自己背信を代償として、すべては現出する。語りえないものでさえが現出する。だからこそ、語りえないものを漏らすことも可能となるのだが、語りえぬものの秘密を漏洩すること、おそらくはそれが哲学の使命に他ならない14 。
だがそうだとすると、我々は、以下のように反問する必要があろう。否定神学の上にさらに否定を重ねることによって<語りえぬもの>を語ろうとしても、必然的に存在論へと回収されて了解されてしまう。それにもかかわらず、「語りえぬものの秘密を漏洩すること」という哲学徒の使命を我々が引き受けるならば、「レヴィナスとは別の仕方で」、<語りえぬもの>を語るという危険さえ冒さねばならないのではないか、と。
「語りえぬものの秘密を漏洩すること」、レヴィナスがそのように語るとき、彼は明らかに 『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインを念頭においている。彼は、その結論を、有名な自己破壊的なテーゼで締めくくったのであった。
語りえぬものについては沈黙しなければならない。〔7〕15
ここで我々は、レヴィナスがウィトゲンシュタインの哲学に反対していたと見なすべきであろうか。だが、事態はさほど単純ではあるまい。むしろ、ここにはレヴィナスのウィトゲンシュタインに対する根源的な共感すら存在すると考えるべきであろう。レヴィナス同様、ウィトゲンシュタインの哲学も、<語りえぬもの>をめぐって貫かれた思考だからである。おそらくは、レヴィナスはウィトゲンシュタインと同じ、あるいは相当に近い<何か>を見ていたはずである。ただ、彼らにとって、哲学のあるべき姿が、そこから逆方向を向いていたのだ。
レヴィナスのウィトゲンシュタイン哲学に対する共感と抵抗は、実は『存在するとは別の仕方で』に散見される、暗黙の言及のうちに示されている。たとえば、合田正人も指摘するとおり16、「懐疑論は反駁可能であるが、回帰する亡霊でもある」17 というレヴィナスの言葉は、『論理哲学論考』の「懐疑主義は反駁不可能なものではない。まぎれもなく非意義的なのである。」と語るウィトゲンシュタインを念頭においている。だが、レヴィナスは、写像理論に基づく前期ウィトゲンシュタインに対してのみ抵抗しているわけではない。むしろ、<語ること>と<語られたこと>の相関関係における「戯れ」jeu という言葉が、まさに「ゲーム」Spiel というコノテーションを内包させていたのではないかと、疑うべきであろう。
だとするならば、次のレヴィナスの言葉は、彼らの言語哲学の根源的な差異を示している。
まさに<語ること>はゲームならざるものなのだ。Le Dire precisement n'est pas un jeu.18
後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、おそらくは、前期から中期にかけての、<語りえぬもの>に対する極限的な思考から導出されたものである。<語りえぬもの>に対する彼らの相違は、彼らの言語哲学の相違を、したがってまた哲学とは何かを問うメタ哲学の相違をも、決定づけているに違いない。
しかし、<語りえぬもの>とは一体何か。いやそもそも、彼らの言う<語りえぬもの>とは同じものなのであろうか。もしそうだとして、なぜレヴィナスにとって、言語はゲームではないのだろうか。そうした問いを解くべく、我々は考察していこう。
だが我々は、本論考の当初の目的を忘れたわけではない。こうした諸問題は、単にレヴィナスとウィトゲンシュタインの言語哲学の差異を測定するためではないのだ。むしろわれわれは、独我論をめぐるウィトゲンシュタインの思考を媒介として、レヴィナスが言う「存在するとは別の仕方で」という地平をかいま見るであろう。そのとき、ウィトゲンシュタイン自身の意図に反して、「言語はゲームではない」という言葉の重みが理解されるはずである。
ウィトゲンシュタインの独我論 ・ レヴィナスのイリヤ
ウィトゲンシュタインにとって、沈黙しなければならぬ<語りえぬもの>とは一体何だったか。まず、『論理哲学論考』を遡及しながら、確認しよう19。
語りえぬことについては、沈黙しなければならない。〔7〕
語りえぬもの、それは神秘的なるものである。世界はどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。世界がある、ということが神秘的なのである。〔6.44〕
ゆえに、世界の存在自体が、語りえぬものであるとウィトゲンシュタインは主張している。こうした命題は、また世界の独我論性に関する命題群と共鳴しあっている。
世界と生とは一つである〔5.621〕
私とは、私の世界のことである。〔5.63〕
肝要なこと、それはこの「私」が、「超越論的主観」や身体的・精神的な「自我」ではないということである。むしろ、私とは世界の「存在すること」の境界なのだ。主体は、世界のうちに属するのではない。それは、世界の境界なのである。〔5.632〕
ここに、哲学において自我は非心理学的に問題になりうるということの意義が厳存する。すなわち自我は、「世界とは、私の世界である」ということを通じて、哲学の中に登場してくる。哲学でいう自我とは、人間、人間のからだ、あるいは心理学で取り扱われる人間の魂などではない。かの形而上学的なる主体、つまり世界の──一部分ではない──境界なのである。〔5.641〕
したがって、ここで言う「世界」とは、表象された観念的な世界のことではない。それは、実在としての世界なのだ。
ここからして、独我論は、厳格に押し詰めてみると、純粋なリアリズムに合致することがわかる。独我論でいう自我は、結局は延長のない点に収縮してしまって、残るものは、それに対置されていた実在だけである。
だとするならば、私の死とは、世界が消滅することである。
同じように、死においては、世界は変化するのではなくて、存在を停止してしまうのである。〔6.431〕
ところで、死は生の出来事ではない。人は死を体験することはできない。もしも、永遠とは限りない時間持続ではなしに無時間性のことである、と考えるなら、現在のうちに生きている人は、永遠に生きていることになる。われらの生に終わりはない。われらの視野に限りはないのと同じように。〔6.4312〕
だが、独我論をめぐるこれらの命題は、実は<語りえぬもの>である。なぜなら、言語と世界が同じ論理形式を共有していると考えられる限りにおいて、まさにそれは言語の限界だからである。
私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する。〔5.6〕
以上の注意が、独我論はどの程度まで真理であるかという問いに解決の鍵を与えている。すなわち、独我論がいおうとしていることは全く正しいのであるが、遺憾ながらそのことは、語られえぬことである。みずからを示しはするけれども。…〔5.62〕
したがって、この『論考』自体が、嘘つきのパラドックスと同じ自己反駁的な構造をもっていることに、我々は留意しなければならない。
私の言いたいことを理解してくれる人ならば、まず私の諸命題を通り──その上にたって─ ─、それを乗りこえていくとき、最後には、それを非意義的なものと認めるにいたるであろう。このようなしかたで、私の諸命題は、解明的なものではありえよう。〔人は、はしごを登り詰めたときには、それを、いわば投げ捨てなくてはならない。〕
彼は、これらの命題を克服しなくてはならない。そのとき彼は初めて、世界を制止しているのである。〔6.54〕
したがって、最後の結論が導き出されるのである。語りえぬことについては、沈黙しなければならない。〔7〕
語りえぬものと語ることとの間に厳密な線引きをすること、そして最後にその線を抹消すること、ここに哲学の使命は終わるのである。
レヴィナスの初期のテクスト『時間と他者』20は、──若干のねじれをここで捨象することが許されるならば──その独我論的側面において、『論理哲学論考』と奇妙なほどに呼応している。
レヴィナスは、「実存すること」exister21 の絶対的な孤独から説き起こす。
孤独の深刻さは、いかなる点にあるのだろうか。陳腐な言い方ではあるが、我々は決して単独で実存しているのではない。我々は様々な存在や事物に取り囲まれ、これらの存在や事物と様々な関係を保っている。…私はある対象にふれる、私は<他者>を見る。しかし、私は<他者>であるのではない。私はまったくの独りきりである。22
孤独の深刻さは、ハイデガーにおける存在と存在者の区別をふまえつつ、実存者なき実存することへと接近することによって、より理解されうるであろう。存在の磁場とでも言うべき「実存者なき実存すること」、それはレヴィナスにおいてイリヤ il y a(・・・がある)と呼ばれている。この実存者なき<実存すること>に対して、我々はどのようにして近づいていけば良いのだろうか。
このようにあらゆるものを想像の上で一掃した後に残るのは、何かあるものではなくて、イリヤ il y a(…がある)という事実である。あらゆるものの不在が、一つの現前として、つまり、そこですべてが失われてしまった場として、大気の濃密さとして、空虚の充実として、あるいは沈黙の呟きとして、立ち戻ってくるのだ。事物と存在とのこのような破壊の跡には、非人称的な<実存すること>の「磁場」があるのだ。23
匿名的な<実存すること>のうちに特権的な実存者があらわれ、<実存すること>を支配する。それをレヴィナスは位相転換 hypostase と呼ぶ。だがそれは、<自我> moi(=存在すること)の<自己> soi(=存在者)への束縛である。それは実存することの孤独を断ち切るのではなく、むしろ完成する。
この匿名的な<実存すること>のうちに、実存者が存在しえるためには、この<実存すること>のうちに、自己からの出発と自己への回帰が、すなわち、自己同一性の活動そのものが、可能にならなければならない。自らの同一化ということによって、実存者はすでに自分自身に対して自らを閉ざしたのである。つまり実存者は単子 monade であり、孤独なのである。
だがここでレヴィナスの言葉を注意深く読むならば、常識的な意味において、実存することを「世界」、実存者をそれに対置される「私」であると解釈するのは不当であろう。
…「我」はそもそも一個の実存者ではなく、<実存すること>の様態そのものであり、厳密に言えば、「我」は実存していない…24
したがって、世界を動詞的に理解するか、あるいは名詞的に理解するかという相違をおいておくならば、非人称的なイリヤは、ウィトゲンシュタインの独我論ととその照準するところをほぼ等しくするのだ。実際、レヴィナスがイリヤを、「ひとつの意識を授けるかのように」(p18)、「匿名的な覚醒状態」(p20) として語っていることは、それを裏付けている。逆に言えば、自分がこの身体であって、世界が対置されるという意識ないし常識的了解は、独我論的世界の「まどろみ」によって特徴づけられるのだ。
だが、死への近さは、意識の非覚醒を引き剥がす。死は<存在すること>に対する 実存者の支配を逃れ去る。死は、「神秘」として、現前へと回収することが不可能な出来事なのである。
死は決して現在時ではない。死がそこに存在するとき、私はもはやそこには存在しない。というのは、いささかも私が無になるからではなくて、私が捉えることができないからなのである。25
このような死の「概念」が、『論考』のウィトゲンシュタインと共鳴していることは、疑いようがない。同様に、言語と独我論との関連においても、彼らはやはり近親性を帯びていると判断できる。レヴィナスは、次のように語る。
すべてをその普遍性のうちに包括することによって、理性は再び孤独のうちに自分自身を見いだすのである。独我論は、錯誤でも詭弁でもない。それは、理性の構造そのものである。理性が結びあわせる諸感覚の「主観的」性質の故にでは全くなくて、認識の普遍性、すなわち、光の無制限性と、いかなるものにとってもその外に存在することができないという不可能性との故にそうなのだ。26
むろん、ここでレヴィナスは、ウィトゲンシュタイン流の写像理論を採用してはいない。というよりは、この段階のレヴィナスは、未だ一つの言語理論を確立していない。だが、理性=言語の独我論性という後期の論点の萌芽を、ここで我々は確認することが出来るだろう。
だが、ウィトゲンシュタインの対比において、レヴィナスの独我論的探究が決定的に際立っている点が、一つだけ存在する。それは、<他者>をいかにして「救い出す」か、という問題意識の存在である。常識から想像されるのとは逆に、レヴィナスが<他者>の他者性を独我論から救い出そうとしている訳では決してない。むしろ彼にとっては、独我論という事実の否認こそが、必然的に他者性の抹消を帰結するのである。
こうして孤独の存在論的根源にまでさかのぼることによって、われわれは、この孤独がいかなる点で乗り越えられうるか、ということを漠然とながらも理解したいと考えている。この乗り越えが何でないか、ということを直ちにいっておくことにしよう。それは一つの認識ではないであろう。というのも、認識を通して、対象は、好むと好まざるとにかかわらず、主体によって呑み込まれてしまい、そして二元性は消滅してしまうからである。それはまた、一つの脱自でもないだろう。というのは、脱自においては、主体が対象のうちに吸収されて、主体はその統一性のうちに再び自己を取り戻すことになるからである。このような関係はすべて、他者の消滅ということに行き着くのである。 単子論 monadologie を放棄するならば、われわれは一元論 monism に行き着くことになるのである。27
<他者>の他者性と、<私>の独我論性とは、双対的な事態である。そもそも、論述の冒頭において、存在論的孤独は、「私は<他者>であるのではない」という事実として、開示されたことを思い返しておくべきだろう。
哲学の端緒における<他者>という問いの有無は、後のレヴィナスとウィトゲンシュタインの言語哲学の差異をかたちづくっていく分水嶺なのである。
語りえぬこの「私」
私が世界であるという命題、それをこれまでレヴィナスとウィトゲンシュタインの双方における初期の思考に見てきた。だが、独我論の神秘は、以上の命題につきるわけではない。その語りえなさが究極のところ「どこ」にあるのか、その独我論のいわば極北を、彼らは後につきつめているのである。
前期の写像理論と後期の言語ゲーム論に挟まれた、文法期といわれる中期ウィトゲンシュタインにあって、彼の独我論的思考は極点に達する。
この独我論を、「私が見るものだけが本当に見られるものである」、と言って表現できる。そしてまた、「「わたし」という語で L・W〔ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン〕を意味してはいない。しかし、たまたまこの私が事実として L・W の意味にとってくれて結構だ」、と言いたい。だが、その代りに、「私は生命の器だ」、と言っても同じなのだ。注意してほしい。つまり肝心なのは、私の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には「私が本当に意味すること」がわかってはならぬことが肝心なのだ。28
言うまでもなく、ここで L・W ならぬ「私」とは、一般的自我のことではありえない。もしそうなら、「私が本当に意味すること」は誰にでもわかりうるはずであろう。いわば、誰にも理解されることがない、言い換えれば存在論的な秩序にも言語論的網目にも回収されることがないような、法外な「意味」なのである。とするならば、ここに我々は、レヴィナスの語る「いまだ記述されざるいま一つの意味」を重ね合わせることができるのであろうか。だが、未だ答えを出すには早すぎる。さらに考察を深めよう。
私が心底から私だけが見るのだと言ったとき、私はまたこういっても同じであった。本当は「私」という語で L・W を意味したのではない。ただ仲間の人々の便宜のために、私の本当に意味することでないのだが、「この場合、本当に見ている人間とは L・W である」と言っても良い、と。さらに、「私」とはいま L・W に宿り他人には見ることのできないあるもののことであるとさえ言えば言えたのである。29
だがそもそも、なぜ「私」は固有名ではありえないのか。そして「私」が何なのか、原理的に私以外の誰にも理解することができないのであろうか。そのような「私」とはいったい何か?
しかし私の根本的問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしそれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。30
もちろん、ここで彼が言いたいことは、手を挙げたとしても、この「私」という言葉は、特定の身体および固有名として回収されてしまう、ということである。だが、そうだとすれば、彼はここで一体何を示したいのか。それは、ある意味では私たちにはどのようにしても理解しようがないと、彼自身語っているというのに。もちろん、このような極限的思考を、我々は「哲学者」の一時的な狂気や言葉遊びと一蹴することもできよう。実際、中期や後期の私的言語論を、前期の独我論を端的に否定したのだと見なす研究者も多い。だがそうではなく、やはり彼は何かを語りたかった、少なくとも、その何かの語りえなさを理解したかったと見なす方が、より適切であろう。中期において彼が反駁したかったのは、独我論自体ではない。むしろ、独我論を語ることが、ある身体や心・意識といった「存在者」の「同一性」へと、独我論を回収してしまうことな 8 のだ。そして、その様に語るときには、すでに独我論は隠蔽されてしまっているのである。だが、その独我論とは、一体いかなることなのであろうか?それを、いまいちど考察する前に、レヴィナスのテクストへと移ろう。
レヴィナスの思考における独我論の極北は、実は後期の著作群に確認することができる。『存在するとは別のしかたで』の第二章は、現象学あるいは存在論の、いわば独我論的還元から説き起こされる。
哲学は真理を探究し、真理を表現する。言表や判断の特性であるよりも前に、真理は存在の暴露たることをその本義としている。だが、何が存在の名において真理のうちに現出するのだろうか。そしてまた、誰が見るのだろうか。31
見ているのは、いわばこの「私」である。だが、この「私」とは「誰」のことなのか。だがこのように問うとき、すでにその「誰」は、いかようにしても、「何」すなわち「存在者」を問う存在論的問いへと回収されてしまい、抹消されてしまう。
~であるところの某を問う問いは、「何」に、「~はどのようなものか」に帰着するか、あるいはこれらの問いのうちに消え去ってしまう。32
だが、この「誰」という問いが何を抹消していると言うのか。それは、現前しえない超越論的自我が、語られたことで、世界内の一存在者と混同されてしまうということなのであろうか。たしかに、次の言葉は、彼がさしあたりそのように唱えていると理解できよう。
「誰が見ているのか」という問いはこの人あるいはあの人について問うているのではなく、「見るもの」一般の存在することについて問うているからだ。「誰が見ているのか」という問いは、「この誰は誰か」という問いとして、この「誰」はどのようなものかと問うているのであり、このとき「誰」に向けられる視線は存在に向けられる視線と同じ視線である。33
そのような意味で、レヴィナスは、この「誰」が<語りえぬもの>であるというのだろうか。しかし、ここで私たちは、レヴィナスが論理展開上、一度存在論を受け入れた上で議論を進めているということに注意しなければなるまい。この「誰」とは、究極のところ、唯一性としての<一者>、言い換えれば代替不能なこの「私」である。34
私は<自我というもの>一般ではもはやなく、唯一無二なるこの私である。主体は任意の自我ではもはやなく、──この私が主体なのであり──、そのような主体は一般化されることがなく、主体一般ではない。つまり、<自我というもの>一般はいまや、他の私ではなくこの私としての私へと移行したのである。35
だがこの唯一性は、<語られた>ときには一般的な自我であることになる。にもかかわらず、私たちはその「唯一性」を「私」という一般的な言葉で語らざるをえない。
ただし、言葉の誤用によって、唯一性を<自我>ないし<私>と例外的に命名することができないわけではない。とはいえ、この命名は代名詞化にすぎない。私と命名される何かが存在するわけでは全くなく、「私」は発語するものによって語られるのだ。代名詞は発語する唯一性をすでに隠蔽し、ある概念にこの唯一性を包摂し、唯一者の仮面ないしペルソナしか指示しないのだが、一人称で語りながらも決して名詞に転換されることのない私は、かかる仮面を打ち棄てる。36
レヴィナスの「「私」は発語する者によって語られる」という言葉を、次のウィトゲンシュタインの叫びと併置させても、違和感は皆無であろう。
「それを誰が言うのだって?」──「私だ!」じゃその〔「私だ!」を〕言うのは誰だ?── 「私だ!」──37
だが「私」の「唯一性」とは一体何か?常識に従うならば、それは、柄谷行人が言うような、一般性と混同されてしまう単独性、「この性」のことであろう。実際柄谷自身は、レヴィナスが単独者としての他者を発見したのだという意味のことを、『探究Ⅱ』で述べている。38柄谷においては「私」と「他者」は、同一の存在論的平面に内属していると考えられている。従って、柄谷の言う「この私」とは単独性のことである。だが、レヴィナスにとっては、<他者>は「私」とは共通の現在には属していないのではなかっただろうか?まさにレヴィナスの『外の主体』における、結論めいた次の論述は、そうした安易な理解を拒絶する。
モナドのこの自同性に、いくら驚いても驚きすぎということはない。それは自我における唯一なる者の自同性であるのだが、ここにいう自我は、同じ類に属する他の諸個体に含まれた属性とは異なる属性の付加や、時空に個体が占める他に還元不能な位置による類の個体化として、あるいはまた、質量による例の個体化として論理的に正当化される必要はない。自我はその唯一性ゆえに異なるのであって、その差異ゆえに唯一者であるのではない。39
ここには驚くべきことが語られている。「私」は唯一なのであるが、それはなんらかの特性の差異によるものでないばかりでなく、その個体の占める場所の排他性、すなわち単独性によっても識別不可能なのだ。まさにそれは、「論理的には識別不能な第一人称の私の唯一性」39 なのである。ここで彼が、ウィトゲンシュタインと同じ何かを語ろうとしていることは、疑うことができないだろう。だが、なぜこの「私」は論理的に識別不能なのであろうか?
ウィトゲンシュタインの言葉を引くところから、考察を再開しよう。
私がボーイに言う。私にはいつでもコンソメを他の人にはみんなポタージュをもってきてほしい、と。彼は私の顔を覚えておこうとする。だが私の顔(からだ)が毎日全く変わるものとするとボーイは誰が私なのかどうしてわかるのか。…「もしチェスの駒が全部同じだったらどれが王だかわからないではないか。」40
だが、彼には私が誰であるかわからないけれど、私にはやはりわかるだろう。そこで、「私はある肉体の中に住んでいる何かの同一性を、私の心の同一性を、跡づけるのだという考えが生じてくる」。だが言うまでもなく、ウィトゲンシュタインが反駁したいのは、独我論を「意識」や「心」という何者かへと還元してしまうような思考の方である。実際、私たちは容易に次のような事態を想像できる。私が、身体だけではなく、「心」に帰属するものと一般に考えられている、感情や性行、私的感覚まで変わってしまうという事態である。にもかかわらず、私には私が誰であるかが容易に理解できる。いや、記憶を失えば、自分の同一性を同定することは出来ないという反論があり得るだろう。あるいはそうかもしれない。だが、そのレストランでボーイにポタージュを膝の上に零されて火傷して、医者に行ったら次のように言われたことを想像してみよう。「これからあなたの身体を取り替え、またすべての記憶を完全に抹消する手術をします。そしたら、あなたはあなたではなくなるので、もうそのレストランに行ってポタージュを零されても大丈夫ですよ」と。だが、そこで「私」は言うだろう。「いや、以前のすべての記憶がなくなっても、熱いと感じるのはこの「私」なんだ!」と。
ウィトゲンシュタインやレヴィナスの独我論とは、この水準の「唯一性」である。それは、まさに永井均が「独在性」とよぶ水準の問題なのである。ならば、我々も、永井流の思考実験をもう一つ展開しよう。
いまこうして私はディスプレイに向かって論文を書いているが、身体も記憶も、たったいま見ている情景も、感情も、すべてそのままで行為し、存続し続けながら、そのすべてがこの「私」ではなくなったとしよう。いわば身体も「心」も伴わない、「私」の死である。そのような事態は容易に想像できる。だが、そのとき、何が変わるのであろうか?何も変わりはしない、少なくとも「私」以外の人にとっては。抜け殻の筆者は、やはり今晩も家族と共に食事をし、友人とメールを交わすだろう。だが、誰もこの唯一の「私」がもはや存在しないということを、知ることは出来ないのだ。それは、人間の判断能力の限界のせいはない。ここでは、個体性も弁別不可能な特徴もなんら失われていない。したがって、いかなる神もそこに何らかの変化 があったか否かを、感受することが不可能なのだ。ウィトゲンシュタインの「私」、そしてレヴィナスの言う「論理的には識別不能な第一人称の私」とはこのことであろう。
言語はゲームではない
私たちは、ウィトゲンシュタイン-レヴィナスとともに、独我論の極北へと到達した。その語りえぬ「私」とは、いかなる超越論的視点からも弁別不可能な唯一性である。言い換えれば、それは存在論の限界を遙かに凌駕しているのだ。したがって、独我論を極限まで突き詰めたウィトゲンシュタインが、独我論について語ることがもはや無意味であると結論づけたのも、納得できよう。
私が独我論的言明をしたとき指差しはしたが、指すものとそれで指されるものとを切り離せないように結びつけてしまい、そのため指差しから意味を奪い去ることになったのである。歯車その他で時計を組み立てたが最後に文字盤をその針に固定して針と一緒に回るようにしてしまったのである。こういうようにして、独我論者の「これのみが本当に見られるものである」は或るトートロジーを思わせるのである。42
後期ウィトゲンシュタインは、もはやこの「私」についてほとんど語ることがない。だがそれは、通常言われるように、独我論を否定して共同体論へと向かったからではない。言語ゲームとは、永井均が言うように、43「語りえぬもの」について「沈黙しなければならない」とすら、語らないような地平なのである。言い換えれば、最強度の独我論的思考をくぐり抜けて後期ウィトゲンシュタインが到達した平野とは、ただこの「私」を透明に生き抜くという生のありかたなのであろう。言語ゲームとは、そのような透徹した生の存在様態そのものなのである。
言語ゲーム、それは決して<語りえぬもの>を神秘として聖域へと押しやることではない。むしろ、それを語る言葉がどこまでも言語ゲームへと回収され、「語りえない」とさえ「語られて」しまう。すると、「語られたこと」の内部に、「語りうるもの」と「語りえないもの」の境界線が出来てしまう。そのとき、逆説的にも<語りえぬもの>は隠蔽されてしまうのだ。ならば、<語る私>という<語りえぬもの>は、「語りうること」と「語りえないこと」、存在と無の双方を支配する「ざわめき」であろう。
ならば、我々はウィトゲンシュタインの「言語ゲーム Sprachspiel」は、レヴィナスが言うところの「語ること」と「語られたこと」の「戯れ」jeu(=ゲーム)と、同じ生の有り様を指し示していると考えることは出来ないだろうか。レヴィナスにおいても、<語ること>は、この「私」の動的な独我論的存在様態でもあるがゆえに、「語りえぬ」とさえ<語りえぬもの>であったからだ。実際、次の『探究』におけるウィトゲンシュタインの有名な比喩は、レヴィナスにおける「戯れ」としても解釈できるだろう。
…われわれは、人々が野原でボール遊びに打ち興じ、現存するさまざまなゲームを始めるが、その多くを終わりまで行わず、その間にボールを当てもなく空へ投げあげたり、たわむれにボールをもって追いかけっこしたり、ボールを投げつけ合ったりして遊んでいるのを、きわめて容易に想像することができる。そして、このとき誰かが言う。この全時間を通じて、人 々はボールゲームを行っているのであり、それ故ボールを投げるたびに一定の規則に準拠していることになるのだ、と。でも、われわれがゲームをするとき──<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながら──規則を変えてしまう場合もあるのではないか。44
レヴィナスは、生を「語ること」と「語られたこと」の両義性として把握していた。ここでは「語ること」は生の動(詞)な存在様態であり、それが「語られた」ことによって、名詞化され、固定化されると考えられている。そうしたダイナミズムを、ウィトゲンシュタインの「プレイ」と「規則」との関係に対比させることは、不自然ではなかろう。
とするならば、このような生の様態こそ、レヴィナスが語ろうとした<語りえぬもの>なのであろうか。だが、我々の予想に反して、レヴィナス自身は「<語ること>は戯れのまったき不在」であると語っているのである。われわれはここに、ウィトゲンシュタインに対する限りない共感 11 とはうらはらの、いや表裏一体の、レヴィナスの抵抗を読み取るべきである。もちろん、ここでレヴィナスは、独我論の根源性を如何なる意味においても否定してはいない。そして生の独我論性は、まさに存在論という言語の一元論的帝国主義へと反映されている。
諸存在の自同性は、語ることに送り返される。けれども語ることは、ケリュグマないし布告としての語られたことを目指して進み、語られたことのうちに吸収され、そこでほとんど忘れられてしまう。諸存在者の自同性の源泉たる<語ること>は、あくまで<語られたこと>と相関的な<語ること>でしかなく、この限りにおいて、<語ること>は存在者の自同性を理念化し、そうすることで、この自同性を構成する。45
要するに、あらゆる言葉は、必然的に存在すること=存在論へと回収されてしまうのである。「<語ること>が現出し、命題および書物の中に組み込まれるということ」は、「不可避な事態」なのだ46。だが先の引用の直後に、彼は語るのだ。
人間がロゴスと相関的な<語ること>でしかないなら、主体性の価値を存在の関数ないし独立変数と見なしたとしても、何ら変わりないことになろう。しかるに、<語ること>の意味は<語られたこと>の彼方に赴く。発語する主体を生ぜしめるのは存在論ではない。<語ること>の意味することは、<語られたこと>のうちで集約された存在することの彼方に赴くのであって、それゆえ、<語ること>の意味するほうが逆に、存在の暴露ないし存在論に正当な根拠を与えうるのだ。47
ここで、<語ること>ということばが、二つの異なる意味で使用されていることに注意する必要があろう。レヴィナスは、おおむね次のようなことを主張している。<語ること>における時間は、存在論的時間と隔時性の、「二つの次元」に引き裂かれている。一つは<語られたこと>へと回収され、ともに<存在すること>という「逃げ場なし」を構成する。だが今ひとつの<語ること>は、隔時性として「存在することの彼方」へと赴くのである。それが「存在するとは別の仕方で」である。そして後者の方が前者に論理的に「先行」し、前者に「存在すること」自体に意味を与えているのである、と。そのような意味において、彼は「「存在するとは別の仕方で」はゲームないし戯れではない」と言い切ったのだ。48
だが、片方でウィトゲンシュタインと共に、「存在すること」の根源性を認めるのであれば、存在論へと回収されざる「存在することの彼方」をそれでも語ろうとするレヴィナスの企ては、狂気じみた自己矛盾としか言いようがないのではないか。我々のここまでの考察は、振り出しにもどされたのであろうか。
存在するとは別の仕方で──もう一つの<語りえぬもの>──
だが、ウィトゲンシュタイン-レヴィナスとともに辿ってきたここまでの考察は、すでにもう一つの<語りえぬもの>を指し示している。
ウィトゲンシュタインは、後期以降、独我論を語りえぬものとして沈黙したのであった。だが、それはいかなる意味において語りえないのであろうか。それは、私たちには、彼が「本当に意味すること」が理解しえない、という意味においてである。そのウィトゲンシュタインが「本当に意味すること」、それを<他者>の独我論と名付けよう。それは、唯一のこの「私」の独我論ではなく、ましてやすべての自我に当てはまるような認識論的独我論などではない。それは、たまたま「ウィトゲンシュタイン」と呼ばれたところの<誰か>であった<この私>──注意せよ!ここではこれ以上の表現が不可能なのだ──の独我論である。確かに、それは私たちの耳には決して届くことが出来ない。私たちには、彼が<誰>であったのか、知ることすらできない。独我論的他者は、文字通り、存在論の彼方である。だが、彼の不可能な独我論的言明は、彼であった<誰か>がそれでも「存在」したのだという<事実>を告げているのではないだろうか。
言うまでもなく、<他者>の独我論的言明を私たちが聴き取ろうとするときだけ、<他者>の独我論という<事実>が存在するわけではない。それは、自分が溺れているときだけ空気は実在する、と考えるようなものである。この「私」の独我論が、私が覚醒するか否かに関わらず真実であるならば、<他者>の独我論も同様であろう。むしろ、<他者>の独我論という<語りえぬもの>は、すべての<他者>の、ひとつひとつの言葉に、痕跡として刻み込まれているのではないだろうか。ウィトゲンシュタインは、<他者>の独我論の了解不能性を、文字盤(この「私」)と針(指示作用)が一緒に回る無意味な時計という、卓抜した比喩で表現したのであった。だが、針が存在するためには、そもそも「文字盤」が不可欠なのではないだろうか。ウィトゲンシュタインの意図に反して、我々にはむしろ、「いわれたことのすべてには、それを言った誰かがいる」49 という存在論的には無意味な事実を、それでも示しているように思われるのだ。ならば、<他者>の独我論こそが、レヴィナスが言う「存在することの彼方」なのであろうか。たしかにそれは、存在論の彼方であり、また隔時性──「一度たりとも現前と化したことのない過去」、「記憶によっても歴史によっても回収することの出来ない起源以前のもの」──と呼ばれる資格を持ちうる。
だが、おそらくは、次のような反論が提起されるであろう。ウィトゲンシュタインを経由した、この論考のアクロバティックな論理展開は、レヴィナスのテクスト解釈からすでに大きく逸脱しているのではないか、と。ならば、レヴィナス自身に語らせよう。
認識することよりも高き秩序。この秩序は、ある使命が谺するなかで、個体性としての人間的なものを触発する。依然として類の一般性によって凝固したままの個体性ではあるが、それはすでに私の唯一性へと目覚めてもいるが、他の人間に対する責任の中では、それは選びのように忌避不能で愛を孕んだ唯一性であり、このとき他人もしくは愛されるものはこの私にとっては世界でかけがえのない唯一の者なのだ。唯一性から唯一性へ、一者から他の一者へ、それも一切の近親性とは無関係に。どんな外部性よりも疎遠なある唯一性から他の唯一性へ。50
次のような反論も予想される。ウィトゲンシュタインがそれを書いたという過去に我々がつねにすでに遅れているのは、単なるトートロジーなのではないのか。あるいはレヴィナスの語る隔時性とは、そのような「移ろいゆく」過去のことではないのか。だが、もしその通りだとすれば、それは現前と相関的な、回収可能な過去であることになろう。いずれにせよ、そのとき<他者>は存在論的平面へと回収されているのだ。「存在の彼方」をかいまみるためには、より極限的な場面と直面しなければならない。
レヴィナスはしばしば、<他者>を死にゆくものとして語る。
自分自身の痕跡として、顔は私の責任に差し向けられるが、罪を犯したものとして、私はかかる顔を逸する。言うなれば私は、顔が死ぬことに対して責任を負うており、自分が生き残ったことに対して罪を負うているのだ。(p218)
だが、なぜ私は自分が生き残ったことに対して罪を負うているのか。それは、私が死んでも良かったはずなのに、<他者>が死んだからであろうか。だが、そのように語るとき、私と<他者>とが同一の平面上に存在したことを前提としている。そればかりか、<他者>の死は、<私>の死との類比において、同じ程度かそれ以下の重みにおいて、了解されてしまっている。自らの存在と死に対する高貴な無関心・無視を語るレヴィナスにおいて51、決してそのようなことはありえない。レヴィナスにおいては、<他者>と「私」は絶対的に非対称であり、したがって<他者>の死は私の死よりも最悪の出来事なのだ。
そうではない。私は、無条件に他者の顔を逸することに、言い換えれば他者の死を引き受けられなかったことに、「あなたに何もしてあげられなかった」加害者として、先天的な無限の罪と責任を負うているのだ。その法外な罪を科せられた私の問いとは、「なぜ私ではなくあなたが死んだのか」ではなく、「なぜ私はあなたの身代わりになって死ぬことが出来なかったのか」という問いであろう。次の言葉は、そのような意味において、読まれなければならない。
問いの最たるもの、あるいは最初の問いであるこの問いとは「なぜ無ではなく、存在があるのか」という問いではなく、「私には存在する権利があるのだろうか」という問いである。52
私が死にゆく他者の顔に向かい、<他者>の代わりに死にたいと祈るとき、極限的な苦悩と共に、いや極限的な苦悩として、<他者>の他者性の真の意味が開示される。「私は<他者>であることができない」。それは、私が<他者>の苦悩を知りえないからでも、体験しえないからでもない。たとえ私が<他者>の苦しみをすべて理解できたとしても、いや、私が<他者>の代わりに死ぬことが出来たとしても、それはそのときにはすでにこの私の苦しみでしかなく、私の死でしかないのだ。私は<他者>の代わりに──<他者>として──死ぬことが出来ない。いや、<私>には、その<他者>が<誰>であるかすら、知ることが出来ない。にもかかわらず、死へと至る病に苦悩し身悶えする<誰か>が、そこにいるのだ。<他者>は私から、無限に分離されている。そのとき、私は自らの独我論に覚醒する。このすべての世界が、名付けようもない唯一の「この私」でしかありえないということに。「私」が「存在すること」へと、この「私」へと放逐されているかのように。
責任に基づいて捉えられた私は、自己を所有し自己を承認しつつ自己を定立するのではなく、自己を蕩尽し、自己を引き渡し、自らの場所を失い、自己を追放し、自己のうちに放逐され、そればかりか、自分の皮膚さえも存在のうちに身を隠す一つの仕方にすぎないと言わんばかりに、傷と侮辱にさらされ、非場所のうちで自己を一掃し、ついには他人の身代わりとなり、自己の追放の痕跡としての自己のうちにのみあることになる。53
念のため、もう一度だけ確認しておこう。<他者>は死にゆくから、私たちのもとから去りゆくから<他者>なのではない。引き受けることのできない<他者>の生と死へ、それでも私が身代わりを願うとき、「私は何も出来なかった」という自分の存在よりも重い涙によって、<他者>の他者性の真実へと覚醒するのだ。<他者>が世界の彼方の、もう一人の<この私>であったことに。<他者>が、一度たりとも現前することなく、いや、如何なる意味においても引き受けられることのない、そのような<誰か>であったという事実に。<他者>は、まさに「存在することの彼方」なのである。
<他者>との間に、言葉に出来ない「無限小の差異」が存在する。だが、その差異はまた、絶対的な懸隔でもある。<私>は<他者>として死ぬことすら出来ない。だが、その不可解な差異が存在するということ、それこそが、逆に<他者>の身代わりとなってこの「私」が死ぬということの、可能性の条件ではないだろうか。そこにこそ、<私>が<他者>のために身を捧げるということの意味が存在するのではなかろうか。
もし、私が他者でもありうるのならば、他者の苦痛と私の苦痛の絶対的な差異は、もはや存在しなくなるだろう。そして、他者の死と私の死は、一つの世界内の比較可能な出来事となるだろう。そこにおいてもし私が他者の代わりに死ぬことがありうるとすれば、それは一つの偶然的な事態の、場所の移転にしかすぎなくなる。だが、そのときにはまさに死の重み──世界が消滅するということ、絶対的な体験不能性であるということ──が抹消されてしまう!もしそれでも、そのような絶対の深刻さにおいて死を理解するならば、他者の死と私の死は、同じ死であるということになる!そこにおいて、他者の代わりに死ぬことは、もはや無意味であろう。
しかし実際には、<他者>と私の間には、言葉に出来ない絶対的な懸隔が存在する。私は<他者>であることができない。だからこそ、<他者>への献身が意味をなすのだ。
他人によって息を吹き込まれることで、この息切れは<存在すること>を突き破る。息を吹き込まれることはすでにして息を吐き出すことであり、「魂を捧げて死にうること」なのだ!ありうる限りもっとも長い息、それが息吹きとしての精神である。人間とは中断することなく息を吸い込み、一方的に息を吐き出す、もっとも息の長い動物ではなかろうか。自己を超越すること、我が家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである。54
だが、<他者>への贖いは、単にこの私を抹消することではない。先ほど我々は述べた。それが決して聞き届けられることがなかったとしても、その手前にそれを語った<誰か>がいると。同様に、<他者>のために贈与しうるためには、「存在することの彼方」へ赴くためには、語りえない唯一のこの「私」が要請されるのである。私が友人にささやかなプレゼントをするときでも、いや、日常のおはようの挨拶を差し出すときでさえ、その<他者>をみたすために、かけがえのないこの「私」が召還されているのだ。誰にもこの「私」が<誰>であるか決して知られることがなかったとしても。「私」という発語には、そのようなこの「私」の<他者>への責任が賭けられている。
<私>という言葉は、万事に、万人に責任を負うわれここに me voici を意味する。55
<他>のために身をささげる<一者> l'un pour l'autre、それが「存在するとは別の仕方で」である。それは存在することから発しながら、存在することの彼方へと赴く。レヴィナスが冒頭で語った真の超越とは、このことに他ならない。いま一度引用しよう。
超越に何らかの意味があるとしても、存在するという出来事──存在性──存在することが、存在とは他なるものへと過ぎ超すという事態をおいてほかにあり得ない。56
別の仕方で語ろう。我々が見てきたように、独我論は究極の不条理、ないし無意味であった。それは端的に語りえないだけでなく、すべての生の内在的な意味を抹消してしまう。だが、「存在するとは別の仕方で」、<他者>へと身をささげうることにこそ、独我論それ自体の<意味>が存在するのである。
ある (il y a) の不条理は、──他人のために身代わりになる一者の様態である限りで、支えられたものである限りで、──意味する。客体と見なされていかに否定されようとも、一切の否定の背後であるは再開し、あるのこのくり返しの無意味さが、すべての他人に対する臣従という宿命さながら、かかる臣従の主体たる私を押しつぶすのだが、このような無意味さは意味に対する無意味の剰余であり、この剰余ゆえに、贖いが<自己>にとって可能になる、──自己自身はまさにこの贖いを意味しているのだ。ある──それは他性の全重量である。57
我々は問うた。<語られたこと>に先行する<語ること>とはいかなることか、<語ること>のもうひとつの<意味>とはなにか、と。<語ること>はあくまで<語られたこと>の手前にとどまる。<語る>ところの独我論的他者は、聞き届けられた<語られたこと>に先行し、そこに痕跡として刻み込まれているが、それは否定的にすら現前することがありえない。にもかかわらず、<語ること>は<語られたこと>の彼方へ赴く。唯一者としてのこの「私」は、存在論的平面にはいかようにも位置づけようがない<他者>へと<語る>のだ。<語られたこと>に回収されえない、いま一つの<意味>がここには「存在」する。この「私」の<意味>とは、この私のすべての言葉であり、献身であり、贈与である。それは、生も死も引き受けることが出来ない<他者>である唯一者が、それでも「存在」しなければ、言い換えれば他者に<魂>がなければ、この「私」のすべての愛は<無意味>になる、そのような<意味>なのだ。
レヴィナスであった<誰か>は、その語りえない<真実>を、その生命のすべてを賭して我々に語ろうとした。それこそが、彼の私たちへの<語ること>であり、身代わりであり、そして─ ─この言葉を使用することが許されるとすれば──愛なのだ。たとえその言葉が、語られたことで必然的に自らを裏切り、曲解され、私たちの世界の手前にとどまり続けたとしても。我々は、レヴィナスの炸裂せる言の葉に、彼の「われここに」を聴き取るべきである。もう一度だけ、レヴィナスの言葉を引いて、この論考を締めくくろう。
哲学は、他人のために身代わりになる一者として、他人に対して無関心-ならざることとして、一者と他人との差異を意味づける、そのような<語ること>の従僕にとどまる。哲学、それは愛に仕える愛の叡智なのである。58
1. Emmanuel Levinas “ Autrement qu'etre ou au-dela de l'essence , Nijhoff, 1978 = 合田正人訳『存在の彼方へ』講談社、1999。
2. ibid., p20
3. ibid., p21
4. ibid., p328
5. ibid., p39
6. ibid., p204
7. 熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』岩波書店、1999。p246
8. op.cit., p70
9. ibid., p26
10. ibid., p22
11. ibid., p28-29 1
12. ibid., p22
13. ibid., p67
14. ibid., p31 1
15.『世界の名著 58』所収「論理哲学論」中央公論社、1971。以下本テクストおよび『哲学探究』は、節番号で引用する。
16. ibid., p464
17. ibid., p381
18. ibid., p26 = 原書 p17
19. Op. cit.
20. Emmanuel Levinas Le temps et l’autre, 1948= 原田佳彦訳『時間と他者』 法政大学出版局、1986。
21. ここで「実存すること」という概念は、後期レヴィナスの「存在すること」essence と全く同義として扱って差し支えない。
22. ibid., p8
23 ibid., p13-14
24. ibid., p23-24
25. ibid., p60-61
26. ibid., p48
27. ibid., p6
28. ibid., p9 2.『ウィトゲンシュタイン全集 6』大修館書店、所収「青色本」p117。
29. ibid., p119
30 . ibid., 「個人的経験」および「感覚与件」について ,p352
31. Op.cit., p66
32. ibid., p76
33. ibid., p76
34. 我々は、ここでレヴィナス自身の論理展開を無視し、主体性に関する部分だけ取り出した。レヴィナス自身の論理は、おおむね、以下の通りである。存在論は、<語られたこと>をその源泉としている。だが、<語られたこと>に、<語ること>は論理的に先行している。<語ること>は、<一者>によって発語される。言い換えれば、「見るもの一般」と一応措定された「誰」とは、まさに発語するこの「私」のことだったのである。
35. ibid., p47-48
36. ibid., p144
37. Op.cit., p366
38. 柄谷行人『探究Ⅱ』 講談社 1989。p29
39. Emmanuel Levinas Hors Sujet, Fata Morgana, 1987 =合田正人訳『外の主体』みすず書房、1997。 p249-250
40. ibid., p193
41. Op.cit., p397-398
42. ibid., p127
43. 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』筑摩書房、1995。p210-217
44 .『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館書店、1976。
45.『存在の彼方へ』p98
46. ibid.p114
47. ibid., p100
48. ibid., p143
49. Humberto Maturana. & Francisco Varela. El Arbol del Conocimiento,- = 1987 管啓次郎訳 『知恵の樹』, 朝日出版社 ,p11
50.『外の主体』p4
51.『存在の彼方へ』p150
52. Emmanuel Levinas De Dieu qui Vient a l'Idee, Librairie Philosophique J.VRIN 1982= 内田樹訳 『観念に到来する神について』, 国文社 1997。p313-314
53.『存在の彼方へ』p315
54. ibid., p405
55. ibid., p265
56. ibid., p20
57. ibid., p372
58. ibid., p368
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