2012年2月15日水曜日

政治と聴くこと

 

先日ある会合で、政治家は自分の主張をするスタイルが良いのか、それとも有権者の声を聞くスタイルが良いのか、という話しが出たので、それについて僕の考えを述べる機会がありました。今回のブログでは、そのときに話したことを少し補って書いてみたいと思います。

政治家を志望する人は圧倒的に少ないので、あまり役に立たない話しだと思われるかもしれません。たぶん、これは単に政治家とはどういうことか、という話しだけではなくて、コンサルティングやカウンセリングにも当てはまるところがあるのではないかと思います。

電話サポートのお仕事

僕は、現在のところコンピュータのユーザーサポートの仕事をしていますが、その前は、某大手家電量販店の顧客向けに、コンピュータの電話サポートの仕事をしていました。電話サポートという仕事は、ほんとうに大変で、技術力と柔軟な応用力はもちろん必須なのですが、それ以上にコミュニケーションスキルを駆使したお客様の感情的ケアが、その仕事の大部分だと言っても過言ではなかったように思います。

さて、この仕事を始めるときに、よく会社から言われたことが、「お客様が言うことを真に受けるな」ということでした。この言い方には語弊がありますが、真実の一片を突いていることは確かです。というのは、お客様が間違ったことを言っているとこっちが思うと、オペレーターがお客様にたいして反論する態度になってしまう。それだと、お客様を怒らせてしまう。オペレーターは裁判官ではありません。お客様がいうことそのものを、まず全面的に受け入れる必要があります。

だけど、お客様が言っていることを受け入れる必要があっても、「真に受けて」はオペレーターとしては失格です。なぜなら、お客様は、コンピュータの知識も正確な用語も知らないからです。これは、もちろん、なんら責められるべきことではなくて、端的で当然の事実です。お客様は、自分のコンピュータにどういう問題が起きているのか、自分が何をしたいのか、それを表す言葉を持っていないのです。そして、私たちオペレーターには、お客様のコンピュータの画面を見ることができません。だから、私たちオペレーターは、説明できない言葉をなんとか振り絞りながら説明しようとするお客様の努力を全面的に受け入れながらも、その向こう側にある事態に想像力を働かせ、「お客様が本当に困っていることは何か」について、言葉を引き出していく必要があります。これは、ものすごくコミュニケーションスキルを鍛えられます。

具体例を一つだけあげます。たとえば、お客様から「コンピュータの初期化の仕方を教えてほしい」という依頼があったとします。そのときに、聞かれたことを伝えるのは当然のことですが、それで満足していたら電話サポートのオペレーターとしては失格です。なぜかと言えば、お客様がPCの初期化をしたいのは、何かトラブルに困っていることはほぼ確実だからです。だとすれば、本当に解決しなければいけないのは、未だ言葉として表れていない、元のトラブルの方です。もしかしたら、そのトラブルは、単なるソフトウェアの不具合やバグで、ソフトウェアのアップデートで簡単に解決できるようなことかもしれませんし、初期化で直らないようなハードウェアの故障が原因かもしれません。それなのに、安易に初期化を案内して、本質的な問題が解決しないばかりか、お客様のデータを失わせてしまうならば、お客様の満足を得ることはできないでしょう。お客様の依頼である「初期化方法案内」を超えて、その「本当に困っていること」を聞き出し、それに対する実際の解決を提供していくこと、それで初めて、お客様が真に満足するサービスを提供できる。そういうことを、私は前の会社で、上司から教えられました。

聴政

このように、「本当に聴く」ということは、本当に大変なことです。人は、自分が言いたいことを、的確に表せる言葉をもっているとは限りません。むしろ、自分が言いたいことを的確に表したり、自分が困っていることがどういう政策によって解決可能なのか、それを知っている人の方が圧倒的に少ないでしょう。政治に関していえば、だからこそ政治家は、「民の声」の「向こう側の声」に耳を澄ませる必要があります。

作家の宮城谷昌光さんの受け売りですが、中国の古代思想では、政治のことを「聴政」と言います。つまり、政治とは「民の声」≒「天の声」を聴くことだ、という考えが中国の政治思想にあるのです。そして、ここでいう「聴くということ」は、本当に深い含蓄をもっています。それを端的に表すエピソードがあります。

中国史上でもっとも優れた政治家の一人と讃えられている人に、春秋時代の斉の宰相、管仲がいます。だいたい紀元前7世紀の人です。彼の君主が、春秋時代の五覇の一人、桓公です。

あるとき、桓公が狩りに出て、山谷の中で迷いました。ひとりの老人を見かけたので、「これはなんという谷か」と問うたところ、おじいさんは「愚公の谷と申します」と答えました。「愚公」とは、愚か者という意味です。桓公は苦笑して「どうしてそういう名前がついたのか」と訊ねたところ、おじいさんは次のような話しをしました。

以前、牝牛を飼っていて、生まれた子が大きくなったので、それを売って子馬を買ったところ、一人の若者が「牛が馬を産むはずがない」といって、その子馬を連れ去ってしまいました。近所の者はそれをきいて私を愚か者と嗤い、わたしが住むこの谷を「愚公の谷」と名付けたのです。

桓公はそれを聞いて、「なるほどあなたは愚かだ。どうして子馬を若者に与えたのか」と言い、宮殿に帰り、その話を宰相である管仲にしました。すると管仲はすぐさま再拝して言いました。

それはわたしの過失です。もしもが天子で、皋陶が法官(それぞれ中国神話時代の帝・法官)であれば、人の小馬を奪う者があらわれましょうか。たとえ暴力をふるわれた老人のごとき人があっても、けっして自分の物を渡さなかったでしょう。その老人は、獄訟が正しくおこなわれていないので、訴訟してもむだだと知って、小馬を奪われようとしたときに争わず、奪われたあとも役人に訴えなかったのです。どうか退出させていただき、政治を修正したいと存じます。

民を思う心、そして民の声なき声を聴きとる圧倒的な耳の良さ。このエピソードが管仲の政治を端的に表しています。そして、彼の政治こそが、中国史において、政治の模範と考えられてきたわけです。中国思想の深遠さは、このことからだけでも窺うことができると言えるでしょう。

 

 

民主主義政治において、政治家が聴くということ

中国の政治思想の奥深さに比べると、西洋の政治思想は、僕にはどうにも底が浅いように感じられて仕方がありません。たとえばの話、― 通りすがりにハンナ・アーレントをディスるのが僕の趣味なので一言言わせてもらいますが ― 、「個々人が共通の空間に現われて個性を表出すること」というアーレントの政治の定義なんて、「は?そんなのどこが政治なの?居酒屋かTwitterで勝手にだべってれば良いじゃん」って僕は思ってしまいます。そんなの、わざわざ政治として重視するほどのことじゃありませんし、ましてや人間の条件だなんて偉そうに言われるまでのことでもありません。僕自身は、政治というのは、根源的に、他者のための政治であり、他者性を軸にして政治思想を再構築していく必要があると考えていますが、それはともあれ、またの機会に話すことができればいいなと思います。

話しを元に戻すと、民主主義政治の時代において、中国思想における理想的な政治のあり方をそのままもってくることができないのは、確かです。管仲は、老人が訴訟を行わなかったということから、自分が責任を負っている司法制度の欠陥を知りました。ここにおいて、老人の声に耳を傾ける必要がある主体は管仲であって、老人自身が司法制度の欠陥をなんとなく感受していたとしても、そのことを明確に言語化された形で自覚し、さらに批判する必要はない訳です。

ですが、民主主義政治においては、有権者はそれぞれ、自分が何を望んでいるのかを知り、その主張に基づいて投票行動をする、ということになっています。もちろん、これは建前にしか過ぎません。実際には、人は自分が何を求めているのかを明確に自覚せず、自分の不利になる政策を支持する投票行動を行い、結果として自分たちが苦しめられるということがままあります。たとえば、小泉政権にたいする若い世代の圧倒的支持が、何を彼らにもたらしたのか考えればわかることでしょう。そういうのを衆愚政治というのかも知れませんが(この言葉もあまり良い言葉ではありませんね)、衆愚政治とは、おそらくは通念に反して、エリートによる政治と本質的に同じものです。エリートは、自らの利益になる政策を大衆に支持させる、そしてそれが自らの不利益になっていることを大衆は知らない。それが衆愚政治だからです。そしてこれが、残念ながら、私たち現在の日本における政治の水準でもあります。

そのような時代において、人びとのための政治家であるためにはどうすればよいのか。たとえば、多くの若者が時代の閉塞感から、北朝鮮や中国との戦争を望んでいるとして、政治家はそれを聞いて、「はい、そうですか、では中国に宣戦布告しましょう」と言えばいいのでしょうか。その戦争によって誰が傷つき、誰が死に、日本国民や中国国民に何をもたらすのかを考えれば、そのような行動は政治家としてあまりにも無責任なことは明白です。戦争を主張する人たちの大部分は、まさか自分たちが軍隊で使い捨てにされ、上司や敵に虐殺されることを望んではいないでしょう。では逆に、それは民衆のためにならないので、自分たちエリートが、愚かな民衆をさしおいて政策を決定しましょうということになれば、独裁政治になり、歯止めが効かなくなります。

本当の意味で民主主義政治を実現するためには、選挙民自身が、自分で「本当は何を欲しているのか」を自覚する必要があります。これが、「未だ到来していない民主主義」の必要条件です。ところが、もう一度言えば、これは私たちのいる日本に限らないのかもしれませんが、人は、自分が本当は何を欲しているのかを明確に知らず、そしてかなりの場合、自分にとって不利になる政策を支持していたりするわけです。ガヤトリ・スピヴァックが「サバルタンは語ることができるか」という論文で言うとおり、自分の欲望や状況をぺらぺらと語れる被抑圧者というのは幻想にしか過ぎず、多くの場合、主体は「脱臼」しているのです。

(この論文は、私の京大文学部の卒業論文の主題だったのですが、なにせ非常に難解なテクストなので、またの機会に紹介できればと思います。さしあたり、この論文が、私がいま書いているブログに通底している、ということだけ述べておきます。)

真の民主主義政治を実現することが政治家としての自分の役割だと考える人は、それゆえ、民衆の声なき声を聴きとることで、「自分が何を欲しているのか」を自覚させるように媒介することを、自らの使命としなければなりません。それはある意味で、カウンセラーの仕事に近いと言うことができるでしょう。カウンセラーは、依頼者の悩みにたいしてアドバイスをしたり、批判点や問題点を指摘したりする訳ではありません。カウンセラーは、依頼者の言葉を、判断することなくただ耳を傾ける。そのことで、依頼者自身が自分の声や欲望に気づき、自分で解決を見つけることができる。その媒介をするだけです。

もちろん、政治家はカウンセラーではありません。有権者の声を聞きとどけ、それで有権者が自分の悩みを解決できるならば、それはただのお悩み相談です。もし、個人の苦境が個人の気持ちの持ち方やら認識の変更やらですべて解決できるならば、政治はそもそも必要ありません。政治家が提示するのは、個人的な悩み解決策や心理学的知識ではなく、政策です。すなわち、有権者の言葉にならない苦しみや悩み、不安や問題意識を深く聴きとっていき、それがどのような社会構造上の問題に起因するかを考え、その問題を解決するための政策を提言し、有権者に説明し、支持を得て実行する。それが政治家の役割です。

何度も繰り返すように、有権者が抱えている本質的な問題と、それに対する処方として支持している政策とが、現実には矛盾するということはよくある話しです。そのような事態に直面したとき、政治家はどうすればよいのか。例えば、多くの大企業の経営者層は法人税減税と消費税増税を支持していると思われます。ですが、消費税を増税すれば、マクロレベルで言えば、即座に自動的に、個人消費が4.5%落ちることはほとんど明白です。とすると、それは多くの企業の売り上げも、自動的に4.5%前後落ちるのです。そうなると、利益は出ないため、法人税減税の恩恵はなくなります。そのあまりにも単純な経済のメカニズムに、多くの経営者は―そして多くの官僚や経済学者も―まったく気づいていない。そして、大企業を支持基盤としてもつ政治家が、もしその事実に気づいているならば、消費税増税を支持する声が多かったとしても、「それはあなたがたの利益にまったくならない」ということを、支持者にたいして説明すれば良いのです。説得には時間がかかるかもしれません。ですが、そこに真心があるならば、通じる可能性が十分にあると思います。

結論

民主主義政治において、理想の政治家像とはどのようなものでしょうか。有権者の個人的な苦境や感情に耳を傾け、その背景にある社会構造上の問題を把握し、社会制度改革など政策に落とし込んで有権者に提示する。もちろん、提言した政策に、至らない部分があったり、修正する必要があったり、さらに言えば根本的に間違っていたりすることがあり、それを有権者や他の政治家とともに批判的に検討し、そして実現していく。そのように私は考えています。

そのために、政治家には「良い耳」が必須なだけではなく―それではただのカウンセラーです―、その耳が聴きとった問題を解決するための、社会的・政治的知識が要求されます。そして、それをわかりやすく説明する能力、そしてもちろん、その政策を実行する意志と力が必要です。本当に大変な仕事です。

私個人は決してしたくありません。わかりやすく説明するのが苦手ですから(笑)

1 件のコメント:

  1. >そうなると、利益は出ないため、法人税減税の恩恵はなくなります。そのあまりにも単純な経済のメカニズムに、・・・・・とを、支持者にたいして説明すれば良いのです。

    排水処理の仕事をしてますが、経済が、水の流れの様なものと認識しています。

    一つの社会の中のお金の循環をとらえると、単純なメカニズムととらえることができるということに肯きます。

    一方、お金の稼ぎ方は個々人の才と環境や運にもより等しく分配されるものでもありません。分配競争に勝てると信じるものが、競争に勝つしくみを作り続けてきたと考えます。勝者は、永遠の勝利を夢見てさらなる競争を加速し挑んでます。

    ゴールがない競争の中、何を目指したらいいのか、誰もその答えを見いだせないでいます。
    目的がないのだから、ブレーキやハンドルもないのでしょう。各論だけでなく目的と操作手段を話すのが政治家で、目的と操作手段を理解し評価するのが有権者で、その他が無権者。

    単純なメカニズムといえどかなり操縦不能な感じです。

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