2010年6月4日金曜日

政治的決断について。その1

鳩山首相のために

昨日、鳩山首相が退陣表明を行いました。鳩山さんについて、とりわけ普天間問題の県外移設という約束を守ることができなかったという点から、政治家としての資質を問うような言説が流布されています。だけど、僕個人の感想としては、これほどまでに、政治的戦略、そして政治的決断というものの意味を理解している政治家を日本で見たことがありません。他人を思いやり、理想とヴィジョンを語り、なおかつ政治的戦略というものを理解している。彼はオペレーションズリサーチを専門とする理系の研究者でで、スタンフォード大学の博士号を取得しています。そのような偉大な政治家をこのような形で失うことは、僕にとって、そして何よりも日本の将来にとって、あまりにも大きな傷手です。

なぜ、一貫して普天間問題の海外移設を希求してきた鳩山さんが、自らの職を賭してまで日米合意を最優先したのか、その真意は、今の僕には充分に推し量ることができません。私たちが得られる情報から推定するならば、普天間代替移設の海外移設を強行に求めてグアム移転を先延ばしにするよりも、むしろグアム協定で規定されている海兵隊の移転の履行とより一層の負担軽減策により、沖縄の受苦を実際に少しでも和らげる道を取ったのだ、ということでしょう。言い換えれば、名にこだわるより、実を取ったということです。

だけど、それだけでは説明がつかないような何かもまた、存在する気もします。私たちが知ることができない安全保障上の問題があって、そのため現在、日米同盟を最優先せざるを得なかった。おそらくそれは韓国の哨戒艦沈没事件と深く関わっている、そのことを鳩山首相の一連の発言は、強く示唆しているように思えてなりません。

 

いずれにしても、彼の判断がいかなる政治的・権力的・暴力的文脈の下でなされ、どのような意図や戦略があり、またその判断が適切だったのかについて、現時点で僕はこれ以上述べることができません。たぶん、鳩山さん自身が、そのうち自らの言葉で語ってくれるのを待つしかないのでしょう。

5.28日米合意が、微妙ながらアメリカ政府に譲歩を勝ち取っていたにしろ、辺野古という文字が記されてしまったということ、それは抗いがたい事実です。ですが今や、これを鳩山首相自身の意図(裏切り)に問題があった、あるいは資質に問題があった、という非常に幼稚な政治的見解が幅をきかせています。また連立与党の一部の政治家が連立を離れ、倒閣運動を起こすに至っては、彼女たちもまた、単なる主体の意志によって政治的決定が可能であるかのような、観念論的でナイーブな政治感覚を持っているように私には見えた。(僕の思い込みだったら本当にごめんなさい。)だけど、政治的判断とは、単に正しい/正しくないという次元で行われるべきものではない、政治的決断というものは、単にできる/できないとかそういうものではない、と僕は声を大にして言いたいのです。少なくとも、意志によって政治的な決定ができると信じている政治家が、実際に首相の地位にあったとして、鳩山さん以上のことができたかどうか。僕にはとてもそうは思えません。ヴィジョン・目標があったとして、それにむけてどのように戦略を練り、真意を気づかれぬように隠微に行為し、場合によっては相手の弱点を突き、自分の要求を相手にのませるか。そうした非常に高度な戦略的思考をもって相手に対峙して、それでもなおかつ負け、譲歩を強いられることがある。まして、安保マフィア・官僚・マスコミ・党内の反動派・そして国民の集中砲火を浴びている状況で、なおかつ前進しつづける、それがどれほど困難を極めることか。それでもなおかつ、前を向いて歩み続け、身を引くことによって、日本国民を護りながらさらに前進しようとする鳩山首相の政治的決断に、僕は心から敬意を表したいのです。

断言してもよいですが、日本で最も、普天間代替施設の海外移設のために努力してきたのは、鳩山首相です。そして、それでもなお、日米合意に現段階で「辺野古」という文字を記さなければならなかった、そのことに日本で最も責任を感じ、また鳩山首相を責めているのは、鳩山由起夫さん自身だと、僕は確信しています。だからこそ僕は、この文章を彼に捧げたいのです。

他者の政治哲学へむけて

5.28をめぐる情勢と、その後の首相の退陣という、政治戦術的にも僕の心境としても、非常に複雑な状況において、政治的決断とはいかなることなのか、それを現在の文脈とは切り離して、一般論として語りたい、ここ数日そう思っていました。それが、今僕がこの文章を書いているモチベーションです。だけど、僕が言いたいことを、簡潔に説明するのはとても難しい。あるいはそれは、「政治的決断には根拠がない」、あるいは「政治的決断とは、正しい/正しくないの問題ではない」、とひとまず要約できるのかもしれません。だけど、それは盲目になることでもなければ、相対主義的に自己正当化するものでもない。むしろ、政治的決断は、決して自らを正当化することができない、だからこそ決断はなさねばならないのだ、ということです。

たぶん、私が「政治的決断」という言葉で言わんととしていることを本当に理解してもらうためには、「政治」と「決断」という切り離しがたい概念それぞれについて、私の考えを説明しておく必要があるでしょう。

「政治」とはいかなることか。ご存じの方もいると思いますが、ある種の―おそらくは20世紀で最も有名な政治哲学者の―議論において、「政治」あるいは「公共性」とは、他人と共通世界を作り、その中で自らの独自性を証し立てていくこと、と定義されています。そうした行為に意味があるのか、あるいはそもそも原理的に可能かどうか、ということはさしあたりおいておきましょう。だけど、この定義だと本来、別に労働者が仕事終わったあと、パブで野球を見ながら監督論に花を咲かせても、あるいはサラリーマンが居酒屋で職場の愚痴を言っても別に構わないでしょう。その政治哲学者がどう言おうとそんなことはほとんどすべての人間がそれぞれの場所で常にしていることです。でも、そんなものを人は普通、政治とは言わない。少なくとも、政治的であると言われる組織に本質的な何かしらが、その定義からは導き出せない。共=現前という「政治」概念の定義においては、まさに政治の政治たるゆえんが完全に欠如しています。

実際の政治というものは、全く正反対の事柄です。ある組織、たとえば政党や国会、官僚機構などがすぐれて政治的組織であるのは、それがその場にいない人間、その場に現前しえない人間の生活や苦しみ、そしてさらに言えば生と死を左右するほどの影響があるからに他なりません。それは、単に国会議事堂の物理的限界によって数千人以上の人間がそこにどうしても集まれないから、あるいは数万人の人間が同時に話し合うことが事実上不可能であるから、代理として国会議員に決めて貰うしかない、というだけの理由ではありません。たとえば政治的組織は、地球の反対側の災害支援を決定すること、冤罪で死刑になった人の無念の思いを聞き届けて取り調べを可視化すること、あるいはあるいは今後生まれてくる人間に十分な生活保障基盤を与えること。政治組織は、そうした諸々の空間的・時間的・社会的他者の生死に直結する事柄を決定するのです。

逆に、たとえば先の政治哲学者が国会議員になったとましょう。彼女は自分の仕事を、自分のアイデンティティーを証して永遠に名を残すことであると考えており、またその場に現れえない労働者たちを動物として、心から侮蔑しています。彼女が具体的に何をするは知りませんが、自分の名をあげるためだけに、労働者を徴発し、他国と戦争を起こしてもおかしくはない。でもそんな自己中心的な政治観念と傲慢な耳をもつ人間は、是非とも選挙で落とさなければ、社会に非常に有害な結果を招くことだけは確実なように思われます。

政治とは、より正確に言えば政治性の本質とは、他者のために行為すること、そのただ一点にあると僕は考えています。たとえ国民の多くがマスコミに流されやすく、自分で思考する能力が奪われていて、心の中で軽蔑したくなったとしても、それでも彼ら彼女らの幸福を願い、不幸を軽減する道を実現せんとする、そうした想いを失ってしまった瞬間、その人は政治家であることをやめなければならないと思うのです。

先の政治哲学者、ハンナ・アーレントの議論を僕は「現前の政治哲学」と呼んでいますが、その本質的に差別主義的な企て(僕は彼女は本質的にレイシストだと確信しています)とは全く逆方向をむいた、「他者性の政治哲学」を紡ぎ出さなければならない。こうした試みは、デリダおよびレヴィナスの議論と精神を継承することです。私が上に述べたこと、そこにすでにデリダの重奏低音を聴き取った人も多いことでしょう。ですが、デリダの脱構築やレヴィナスの他者論は、一般になぜかある種の相対主義・虚無主義や、ユートピア的な議論であると理解されています。でもそうじゃない。彼らの語る政治や社会とは、まさに私たちがいまこうして紡ぎ出している政治や社会のことを語っているのだということ、そしてこれこそが、実践的な戦略的思考と戦術的行動、そして政治的決断を呼び覚ますのだということ、そのことを私は、自分のいまここの責任において、自らの言葉であなたに伝えたいと思っているのです。

 

続きは稿を改めます。

2 件のコメント:

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  2. 普天間問題に関する先月末の記事も含め、大変興味深く拝見させていただきました。

    筆者さんの見解は、一つの見解として大変説得力があると思います。その一方で、
    >鳩山首相自身の意図(裏切り)に問題があった、あるいは資質に問題があった、
    という見解について、それを
    >幼稚
    という客観性が求められる言葉で評するだけの根拠が、示されているようには見えません。
    どちらの見解も、公になっている情報に対する、評価の違いでしかないように見えます。

    >名にこだわるより、実を取ったということです。
    についても、何が「名」で何か「実」か、「実」にどれほどの価値があるかは立場によって違うので、これも論者の価値観に基づく私見の域を出ないのではないかと思います。

    いずれにせよ、有権者の責任は、支持する「政策」にYesの声を挙げ、政治の不透明や自らの生活を脅かす「政策」に対してNoを突きつけ続けることであり、推測によって特定の政治家個人についてあーだこーだと評論することではないと思います。その意味で、鳩山元首相を批判するだけで終わる言論は、無意味であることは確かだと思います。

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