2012年1月4日水曜日

内面の豊かさと経済システム ①               ―「経済と生の対立」について―

 

日本の経済成長が20年以上停滞している状況の中で、内面的・精神的な豊かさを人生の基本的な価値観とする人が、とりわけ若い世代に少しずつ潜在的に増えてきている。僕にはそんな印象があります。これは、LOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)として名指されるクラスタであると言ってもいいと思います(名指される当人たちの中には、商業的に利用されてきているこのネーミングを拒絶する人も多いでしょうが、他に適切な言葉が思いつかないので、さしあたりこの名前で呼ぶことにします)。

そして、こうした傾向は今後、より一層強くなってきて、社会の表層にあらわれてくるだろうと予想されます。というのは、福島第一原発の事故によって、従来の権力構造とそれを支えてきた価値観が大きく揺るがされる中で、必然的に多くの人が生命や生活というものを見つめなおしつつあるからです。

こうしたムーブメントは個人的には喜ぶべきことだと考えています。それはおそらく、僕自身が、大きくわけるとそのクラスタに属しているからでしょう。僕自身は美味しいもの、美しい音楽を至上の喜びと感じる官能主義者ですし、生活全体を芸術化したいという欲望もあります(実現には程遠いですが。てかまず部屋を掃除しろよw)。

ただ率直に言うと、そうした方向性を向いている人たちが口にしているイデオロギーに対して、僕は少し違和感と、もっといえば危惧を感じています。彼らは、「経済よりも生活・命が大切だ」「経済成長という神話を捨てて、内面を充実させるべきだ」と主張することが多いからです。すなわち、経済と内面の豊かさとを対立項ととらえており、経済を否定することによって精神を充実させる―とまでは言わないけれど、精神的豊かさを追求することは経済システムの廃棄・否定に繋がる、と考えている節があるからです。そうした考えの背後には、経済というものに対する無理解と、もっと言えば侮蔑があると思います。

僕は、「そんなこと言ってもね、経済は大切だよ」と単純なことを言いたい訳ではありません。たとえば、「原発は命を脅かすっていうけど、原発がなければ経済が落ち込むよ」とか、「消費税を上げると消費者の生活は成り立たなくなるっていうけど、上げないと政府財政が破綻しますよ」とか、「国際競争で企業が勝ち抜くためには、労働者の給与を下げないといけないんだ」―とか言う経済学者さんや評論家さんたちはいっぱいいます。そうしたイデオロギーに対する反動として、「いや、経済よりも生活が大切だ」というLOHAS的なイデオロギーが称揚されてきた。それは、通時的に言いかえれば、日本の高度経済成長期を担ってきた、そしてバブルを謳歌した少し上の世代に対する、若い世代の反感・反動もあるんじゃないかと思われます。それは、心情的には僕も理解できます。だけど、僕は、その両者のどちらも生活・生命と経済を対立的に考えている時点で、経済と生命の本質的な関係を理解しておらず、それゆえ経済について無知である、ということです。そして、無知の社会的・実践的な帰結は、いずれの場合も悲惨です。

まず指摘したいことは、LOHAS的な反経済主義は、すでにして経済至上主義に対して、構造的に負けているイデオロギーだということです。たとえば、「コストの安い原発」に対して「(現時点では)コストが高い自然エネルギー」を称揚することは、その短期的な非現実性(とイデオロギー的には見えること)によって、結局は原子力産業に荷担することになることは、多くの人がすでに指摘している通りです。念のために言えば、もちろん、原子力発電のコストは、運用コストだけ見ても実際には非常に高い訳ですが、その前提条件を精査することなく、イデオロギー的な対立構造に持ち込まれた時点で、すでに負けることを宿命づけられているというのです。一般論で言うと、経済というもの端的に拒絶した時点で、自給自足生活への復古を志向せざるを得ない訳ですが、それはすでにして失敗を宿命づけられているのです。

逆に、経済至上主義には、より大きな問題点があります。その問題点は、そのイデオロギーが、派遣労働や過労死といった労働問題、あるいは放射性物質の拡散や被曝労働といった原発問題などなどを通じて、単に生命・生活を脅かすというだけではありません。経済活動が個々人の生によって支えられ、また個々人の生を支えているという、経済と生の本質的な関係にたいして無知であるが故に、経済至上主義は生を破壊し、そのことを通じて経済を破壊する自滅的なイデオロギーだからです。たとえば、低線量被曝の最も典型的な症状は、発がんなどではなく、むしろ「ぶらぶら病」と呼ばれる不定愁訴であるわけですが、そのことによって労働意欲も消費意欲もなくなり、かつ医療費もかかるようになった人間が大量出現することが、どれほどマクロ経済の観点からして―その観点自体の非人間性はさしおいてあえてこういう言い方をするわけですが―「重荷」となるかを考えればよいでしょう。これは単なる仮定のお話しではありません。現に、過剰な不払い労働によって鬱病に追い込まれ、企業から使い捨てられた人間が日本では数十万人単位で存在するわけですが、彼らについても、まったく同じ事が言えるからです。

実は、僕は、むしろ日本人に蔓延する「経済至上主義」こそが、20年以上にわたる日本の経済停滞の最大の要因だったと考えています。これは、また別途論証が必要なことなので、詳しくは別稿にあらためて書ければと思いますが、いちおう、簡単に説明しておきたいと思います。失われた20年(とりわけ1997年以降)で起きたことは、企業の行動としても、中央政府の政策としても、家庭から企業への大規模な所得移転でした。サービス残業や不正請負による不払い労働の蔓延、消費税増税と法人税減税、労働者派遣法改悪、ゼロ金利政策、こうしたことによって、労働者の所得総額は大幅に抑制されてきたのです。

労働者の所得が抑制されるということは、ほとんど必然的に、個人消費が伸び悩むということを意味していることは、ちょっと頭を働かせれば理解できることです。個人消費が抑えられるということは、個人消費に直接関係する諸産業の売り上げが落ち込み、それに間接的に関連する業種、たとえば運輸業や工業生産用機械を作っている企業の売り上げも落ち込み、それゆえ投資需要も低下するということを必然的に意味しています。この状況では、イノベーションが行われ消費者の需要が喚起されたとしても、投資によってより大量生産が可能な機械が導入されたとしても、経済は回りようがありません。なぜなら、欠如しているのは潜在的需要ではなくて、消費者の手元にあるお金だからです。企業から労働者=消費者へ、そして消費者から企業へという、経済システムを構成するもっとも基本的なサイクルが壊れている限り、どのような経済政策も金融政策も効果をもちえません。

経済学者や経営者たちは、企業が利潤を上げることと、経済成長とが同一であるということを、自明視しています。ところが、その大前提が、じつは根本的に誤っているのです。その点について私は以前のブログ記事「経済成長とはなにか」でもっとも簡単なモデルで示しましたが、交換のサイクルで誰かが利潤を得てそれを還元しないことは、経済成長を阻害し、デフレを起こす要因なのです。赤旗の記事(2009年11月19日)によれば、それまでの10年間に企業の内部留保が429兆円と倍増している訳です。その一方で、給与所得は大きく抑制され続けている。これがもし仮に労働者に給与として還元されていたら、その大部分が企業の売り上げ増に繋がっていたはずで、そうすれば労働者ももっと潤い、さらに企業の売り上げも増えていたでしょう。別の言い方をすれば、マクロ経済レベルで見れば、企業が労働者への給与支払を抑制し、利潤を確保したことによって、経済全体の成長も、企業としての自分たちの成長をも、結果的に阻害していたのです。

日本経済にもっとも強い影響力をもっている経済学者や経済評論家、経営者たちが見落としていること、それは、生産されたものは消費されて初めて生産になる、というごく当たり前の事実です。労働と消費、経済と生活は、決して対立するものではありません。労働によって作られたモノが誰かに消費されて、それが誰かの生活の活力になって、さらに彼・彼女の労働者としての生産に繋がる、このサイクルこそが経済だからです。

結局のところ、経済至上主義にとらわれている経済学者たちは、生産や労働の向こう側に消費者の生活が存在する、という事実を忘却しているように思われます。それに対して、「経済を否定して生活を大事にしよう」と安易に言っているLOHASの人は、消費のむこう側に生産者の労働がある、という事実に思い至っていません。どちらにしても、生産物や貨幣が、その向こう側にいる他者との暗黙のコミュニケーションである、という事実に気づいていないという意味において、まったく同じ、誤ったイデオロギーの土俵に立っているのです。生産物と貨幣を通じた暗黙のコミュニケーションを経済活動と呼ぶならば、経済学者も経済を否定する人も、経済について本質的なことを知らない、と言って良いでしょう。

私たちは、自分たちの生の喜びと苦しみの原因について知るために、経済について、とりわけ経済と生命の本質的な関わりについて、そして経済と他者との関わりについて、根本的に考え直す必要があります。そのためにもっとも手っ取り早いのは、マルクスを読み直すことです。なぜならマルクスこそが、私がここで言っている意味において、「経済」というものを見いだし、人間の生との関わりにおいて哲学的な考察を開示した、ほとんど唯一の人間だからです。

次稿では、マルクスの重要なテクストを側に置きながら、経済とは何かを、できるだけわかりやすく説明したいと思います。

2 件のコメント:

  1. 「経済至上主義」という言葉は恣意的なのか、曖昧かつ多義的ですね。利益至上主義、国益至上主義、成長至上主義等をミックスしたようでもあるし、経済システム至上主義とも解釈できます。
    冒頭にある若者の内面的・精神的価値への移行は実感するところがあります。そして、反経済至上主義にも私は共感を覚えます。教育、競争、システム、制度。これらの進化は、人間を機能として見る人間奴隷主義の推進に他ならないからです。
    次項の「経済とは何か」で、ishtaristさんが何を語られるのか、楽しみにしています。

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  2. そうですね、「経済至上主義」というのは、もちろん自称ではないですし、あくまでLOHAS側から批判的に名指されたものなのは確かですからね。ただ、それは集団として実在しないわけではないですし、たとえば「新自由主義」なんかよりもずっと範囲が広い信仰というかドグマのようにも思います。

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